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ふたたび「ユダ福音書」について。「ユダ受難曲は将来書かれるか?」 [思想]

やっぱりあのハーバード  クロスニーの著書「ユダの福音書を追え」はそこいらのいかさまな本ではなさそうだ。今はやりの「ダヴィンチ  コード」などはこれにくらべれば大衆文学にすぎず、話にならないいい加減なもののようだ。

私はそう本をたくさん読むほうではないが、一度面白いと思ったものは何度も繰り返して読む習癖がある。どうやら「ユダの福音書」は実在するもので、前のブログには書いていないが、紀元2世紀後半に正統派キリスト教となったエレスナイオスが「ユダ福音書」を「異端」と決めつけ、排除したことに端を発するようである。この決着には解読がもっと進み、多くの議論がなされなければならないだろうが、私はありそうな話だなあ、と興味津々である。もしかして本当に、ほんとうにそうなら21世紀最大の発見ということになろう。これまでの4つの福音書が全部ウソを言っている可能性もある。

現代の神学では、福音書というものはマタイとかルカとか特定の人物がものしたものではなく、原始キリスト教がそれぞれの派閥に分かれてできた産物、といわれている。イエスを裏切ったのはユダばかりではなく、結局全部の弟子たちも全員裏切っていることは4つの福音書も否定していないわけだから、「ユダ福音書」が存在し、それは4つの福音書と対立した内容を持つ、といわれれば、神学にはうとい私にも納得がいく。

音楽も1世紀くらい後になって「ユダ受難曲」という傑作が書かれたら、そのとき、シュッツやバッハの受難曲は音楽的価値はかわらないとしてもどう位置づけされることになるのだろう。


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