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センター試験 [やつあたり]

新しい学部を立ち上げるについて、センター試験を導入するかどうかが会議で話題になった。このところ私立の大学もかなりセンター試験を導入しているから、とのことだが、どうやら見送られるらしい。私はほっとした。

私はまだこれが「共通一次試験」といわれた第1回の試験からさまざまな形で携わってきた。というより、不本意ながらやらされた、という気分が非常に強い。最初は監督官として、受験生を直接監督をする仕事をやらされた。いわば一番下っ端の仕事である。まあ当時、先輩で日本で代表的な某ピアニストの先生も同じ仕事をおやり(おやらされ)になったのであるから、下っ端の私はもとより文句を言える筋合いはない。ただ、私が強烈に味わった感覚は今も忘れない。最初の時間に試験問題を配り終え、試験が始まってシーンと張りつめた空気のなかで、私は言いようのない恐怖感を憶えた。「なんだこれは! 徹底したファッショじゃないか!」この、ぞっとする恐怖感からはなん10回やっても慣れられるものではなかった。「こんなもの.まともな試験といえるか!」。

 全く1秒の狂いもない同じ時間、日本中一斉に、なん100万人だかが同じ問題、同じ答えというゲームに取り組む。それもいくつか用意された回答の中の、ただ一つの選択肢がのみが正しくなければならない。正解はなし、とか複数の答えもあり得る、という選択肢も許されない。実際自分でもヒマに任せて問題に取り組んでみたが、とくに国語で文章の解釈を要求される問題ななどは、必ずしも正解は一つとは限らない、という問題もあることを発見したこともある。でも正解は一つでなければならないのだ。

 これでは人間の一番大事な考える力を奪ってしまう。生徒たちはこの試験に備えて、どうやって能率よく、早く、たった一つの正解とされるマス目を埋めるためだけの訓練を経てきているので、その能力は発揮されるだろう。だが、一部にミスや問題点はあっても全体を総合的に考えて、自分なりの決断を下す、という社会人になれば一番必要とされる大事な訓練などはそっちのけになっている。文字通り知識の詰め込みと、解答を能率よく、迅速に行う訓練だけがものをいう世界なのだ。こんなの、とうてい教育といえる代物ではない。最近は多少は改善されたようだが、それでもこのシステム自体が基本的にファッショであり、まともな教育とは相容れない。私は今でも思っている。「センター試験は100害あって一益なし」。教育のことをドイツ語で「Erziehung」という。この言葉には人間が本来うちに持っているものを「引き出す」というほどの意味合いがある。教え、育てるのではない。(札幌)
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