SSブログ

なぜドイツは2シリンダーにこだわったか [ドイツの蒸気機関車]

 私が理解に苦しむのはプロシア時代に培った4シリンダーの技術が、なぜDRになってから保守的な2シリンダーが主流になったか、ということだ。そしてその影響をまともに受けた日本のSLはずっと終わりまで2シリンダーでありつづけた。狭軌だから、シリンダーを4個つけるスペースがない、ということはいいわけにならないようである。オランダで製造したインドネシア向けの狭軌用機関車は4シリンダーであり、日本の「燕」より速いスピードが出せたという。日本はDRの保守的なところまで学んでしまったようである。

 2シリンダーだと4シリンダーに比べてどこが悪いか。時速160キロ以上の高速になると動きがスムースに行かなくなり、乗り心地が格段に悪くなることと、路線に与えるダメージが深刻、ということのようである。だから試作に終わったとはいえ、05(3シリンダー)のように200キロの記録を出すためには2シリンダーでは限界を超える。2シリンダー機で限界まで営業運転に耐えたのは61001であろう。01は実用速度がせいぜい120キロくらいが限度と考えていたから、わざわざ複雑な4シリンダーにするメリットはない、と考えたのかも知れない。まして日本ではせいぜい90キロ運転くらいだったから金と手間のかかる4気筒はいらない、となるのは当然の成り行きであろう。

 C53の3気筒は部品を外国のものに頼ったために調達がうまく行かなかったことと、当時の日本のエンジニアに難しくても何としてもこのシステムをものにする、という情熱に欠けた。日本で3気筒がもう少し日本流に発展したならばそれ以後のSLはもっとちがったものになっていたかもしれない。

 ちなみにアメリカでは大型機であっても主流は2シリンダーだった。4シリンダーが進歩的で2シリンダーは保守的、というように単純に色分けすることはあまり適当でないようである。もう一つ忘れてはならないのは機関車の設計にあたって、使用する地域や国で、どのような質の石炭が調達できるか、ということが重要な要素になる。
 
nice!(1)  コメント(3)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 3

Akira

Klaviermusik-kobaさん、こんばんは。

前回の記事から興味深く拝見しております。さて、今回記事のテーマでもある「なぜドイツは2シリンダーにこだわったのか」ということについて、少々調べてみました。文献は篠原正暎氏の「全盛時代のドイツ蒸気機関車」です。
その中の01形と02形解説の記事を読むと興味深い事実がわかって来ました。と、言うのは1925年から26年に掛けてドイツの鉄道が統一されて初めての機関車である01形を設計するにあたって、それ迄バラバラに設計されていた王国鉄道の蒸気機関車から、制式機関車として規格化をした設計にするという当初からのコンセプトがあったとのことです。そこでは、もちろんシリンダーの数については大きな議論になったそうです。

そこで最初に10両の同じベースである車体に2シリンダと4シリンダ(複式)を半々で製造したそうです。その時の2シリンダ機が01形で4シリンダ機が02形となり、先に落成したのが02形で後に01形が完成し、早速両形式の機関車が試験走行をしたそうですが、その結果は一長一短で、勾配区間で重量の多い列車牽引時は4シリンダの02形が優れた性能を発揮したが、それ以外の区間、特に平坦な区間での通常編成の場合は経済性において01形の方が優れていたそうです。
保守や修理の問題を考えあわせれば、わざわざ02形を選ぶ理由もなかったとされたそうです。ただ、この結果は、だから4シリンダが劣っているという理由にはならず、優れた性能と高い経済性を持ったバイエルンのS3/6がその後の1927年以降に40両追加生産されていることからも理解出来ます。

結論を言えば、01形と同じ構造を持った02形は失敗作であり、性能比較のためとは言え、01形の矩体に無理をして4シリンダを組み込んだことに問題があったようです。

以上は自分が死んだら01形のカマに自分の灰を焼べて欲しいと願う程の01形好きである篠原氏の文章ですが、彼の調査と考察には頭の下がる思いです。
by Akira (2010-01-18 22:31) 

klaviermusik-koba

ありがとうございます。本を何冊か読んだだけではすぐ忘れてしまうので、自分でアタマを整理する意味と、あわよくばどなたかが間違いを指摘して下さるかも知れない、との思いで書いていますから、細かいところ思い違いもあるかも知れません。

01と02を試作した段階でワーグナーはすでに2気筒、という強い先入観をもってのぞんだようです。そのため02が失敗に終わったのはもともと4気筒には無理な構造の車体設計だったので当然の帰結、といえるのでしょう。

新型機は北ドイツの勾配の少ない場所を念頭に置いて設計されたようですから2気筒で充分、とワーグナーは考えたのだと思います。おっしゃるようなバイエルン生まれのS3/6がその後も作られ続けた、という事実は南ドイツの勾配の多い地方には01は不向きで、4気筒の性能のすぐれた機関車の需要が引き続きあった、ということで説明がつきそうです。

by klaviermusik-koba (2010-01-19 16:14) 

我嘆悟遁

ふーーむ。19-1001が復元されないかな。タイムマシンに乗ってBerlin Hamburg間を疾走しているのを見に行きたいな。
by 我嘆悟遁 (2014-09-13 04:59) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

01,02そして・・・C61の復元 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。