SSブログ

通奏低音はけっこう奥が深い [札幌日記]

「谷の匠」と称する札幌大谷大学の、先生、学生が中心になってやる室内楽のコンサート、今回はバロック音楽、ということで、私はバッハのカンタータ202番、結婚カンタータの通奏低音のチェンバロを担当することになった。本番は明日。最後の総練習である。

私のこれまでやってきた通奏低音なるものは、和声学のバス課題を即興でやるようなもの、と考え、それなりの本を読んで勉強もしたが、所詮素人である、ということを思い知った。カンタータの通奏低音をただチェンバロで和声を充填するだけなら、それほど、難しいものでもない。が今回はルネサンス音楽、バロック音楽が専門のJ先生から、私のやり方についてずいぶん注文を付けられた。「先生、それじゃダメですよ」と彼は遠慮なくいう。ただ和声を充填するだけではなく、その音の数、アルペッジョのやりかた、和声の選択の仕方など、多岐にわたる。 J先生と私は息子ほどの年が違うが、「なるほど」とこの機会にいろいろ素直に教わり、「通奏低音なんて楽なもの」という私の安直な考えはだいぶん修正された。

たとえば終止形の和音をただのドミナントにするか、7を加えるかというような一見単純と思える問題も、まあどっちにしてもこの際大差ないじゃないか、と私などは考えるのだが、バロック音楽ではそういうのものでもないらしい。で、私は生徒になったつもりで、いろいろ教わりながらやっていたのだが、しかし私の考えというのもある。3番目のアリアの中間部でわたしがかなり強烈な不協和音を連続して使ったら(とはいえ、バッハのスタイルの範疇にある程度なのだが)「先生、それはいくらなんでもやりすぎじゃないですか」。

が、なんといわれてもここだけは私は頑として応じなかった。「ここばかりは私は絶対変えるつもりはない」。彼もしょうがないなあ、という表情で「わかりました」という。私は音楽に関する彼の真摯な取り組みがよくわかっているから、聞くべきはきく、私もいいたいことはいう、といった忌憚のないやりとりをしながら音楽を作って行くのが好きなのである。年齢は関係ない。

通奏低音もなかなか奥が深く、あなどりがたい。ただ、古楽に関する演奏法の伝統というものは、ロマン派時代の間に一旦途切れてしまっている歴史を考えると、現在ではいろんな人のいろんな考え方があって、どれが一番正しい、というものでもない、ということも念頭においておく必要はあろう。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

台風余波宮廷列車 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。