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作曲コンクールを審査する [洗足学園音楽大學]

第3回洗足現代音楽作曲コンクールの本選会が昨日前田ホールで行われた。私の担当はピアノ、オルガンなど鍵盤楽器である。40曲以上の応募があり、楽譜審査で選ばれたピアノ曲が五曲、オルガン曲が2曲を演奏を聴いて審査する。外国人の審査員には録音を送ってコメントをもらって、それも考え合わせてから結果が出るので内容にはここでは触れられない。

本選に残った作品は作曲技法の上では一定以上のレベルにあり,あとは音楽として面白いかどうか,が焦点となる。演奏に当たったピアニストもオルガニストも困難な曲に誠実に立ち向かい、ここまでのレベルで演奏をされたら作曲者も満足の行くもの,と思われる優れたものであった。審査に当たる方もかなり公平に聴くことが出来たように思う。

ここで「現代音楽」について私なりの感想を述べておきたいと思う。現代の人間が作曲したもの全てが現代音楽なのではない。もちろん調性があってもいいし,事実そういう作品もあったが,やはり既存の名曲が頭にあるから調性のある音楽はもうほぼ限界に来ている感がある。そしてとてつもなくヘンテコで変わった試みももう20世紀でほぼ出尽くした。その上で何ができるか,ということであろう。

正直に言うとタコ壷化した「現代音楽」というジャンルが出来上がってしまっているから,その中で人の心を惹きつける、もしくはピアニストとしての立場から「自分でも弾いて見たいと思うかどうか」という素朴な原点に立つと、残念ながらそう思える作品には今回出会えなかった。もとより,ピアニストというのは一般的に保守的なものである。それでも「現代」に書かれた膨大な「わかりにくい」ピアノ曲の中からレパートリーとしてわずかづつではあるが定着している。繰り返し演奏されれば聴衆にも馴染んでもらえる。カプースチンなどはその一例かもしれない。

何十年か前に比べれば若い人たちの作品の書法も随分洗練されてきたことも事実であり、それは否定しないが、やはりそれだけでは「イマイチだなあ」という感触を拭い去ることはなかなむつかしい。作曲のコンクールは新しいものを書かなければ評価されないのも事実ではあるが、ピアノのコンクールでは必ずといっていいほどバッハの平均律やベートーヴェンのソナタのような古典が課題に出され、その上で何を弾こうが構わない、というやり方が多い。作曲のコンクールも、短い曲でのいいから古典のエクリチュールをどれだけ身につけているかが大事だから、古くはパレストリーナからワーグナーに至る、誰でもいいから古典の書法で書かれた作品を課題として一緒に提出させる、というのはどうであろうか。例えばフォーレ風に徹したもの、ヘンデルの作風に徹したもの、などである。それでもなおかつ、その人の個性は出るはずである。

古典の書法がきちんとできない人の作品はイマイチ信用できない、というのは、かねてからの私の持論だが無理な注文なのであろうか。一つの秀逸な例を挙げればストラヴィンスキーの「プルチネッラ」。こういう古典的なものを古典的に、しかも自分流に誰も真似できないやり方ができる人はそう多くはなかろうが、古典的な基本書法を身につけてこそ、「現代作品」も説得力を持つと思うがどうか。古来、作曲家は先人の傑作を模倣し、盗みながら自分の作風を確立させてきた。
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