地デジは視聴者にとってなんだったのか [やつあたり]
チャンネルを変えるのに、ボタンを押しても以前のようにすぐには変わらず、ずいぶん待たされる。チャンネルも増えるのかと思ったらそれもない。もちろん番組は以前のとおり。いいことといえば画面が美しくなったことだけだが、これとて、前の画面よりびっくりするほどよくなったわけでもない。 要するに私には前のTVよりよくなったという実感がさっぱりないのだ。金をかけたらそれなりのメリットは視聴者にあるのが当たり前だと思うのだが。結局関係業者の景気対策のために一般庶民が犠牲を払わされただけではないのか。
今の野球は「野球」か? [やつあたり]
だって、高校野球もサッカーもラグビーもゴルフも広い場所を必要とするスポーツはみな屋外でやっているではないか。サッカーなんて雨が降っても泥だらけになりながらやってる。屋外スポーツとはそんなものだ。事情さえ許せばゴルフ場にも空調をつけられる巨大なドームを作り、登山も巨大な囲いを作って空調付きで岩登りをする時代が来るか? ありえないなあ。なぜ職業野球だけ屋内でやる? しかもあの膨大な空間の空調をやるなど、エネルギーがありあまっているときのバブル的発想以外のなにものでもない。野球は屋外でやる本来の姿にもどすべきだと私は思っている。今や発想の転換の時期なのだ。いまでもヴェローナなどの野外劇場は途中で雨が降り出せばやめる。入場料は払い戻さない。
そうなれば野球関係者の受けるダメージは大きいであろう。しかし、パンを作ろうと思っても計画停電で製造中に製品がダメになってしまうことのほうが、はるかに大多数の一般の人にとっては困ることなのだ。また、酸素吸入を必要としている重病患者には死ねというようなものではないか。
東京オリンピック [やつあたり]
センター試験 [やつあたり]
私はまだこれが「共通一次試験」といわれた第1回の試験からさまざまな形で携わってきた。というより、不本意ながらやらされた、という気分が非常に強い。最初は監督官として、受験生を直接監督をする仕事をやらされた。いわば一番下っ端の仕事である。まあ当時、先輩で日本で代表的な某ピアニストの先生も同じ仕事をおやり(おやらされ)になったのであるから、下っ端の私はもとより文句を言える筋合いはない。ただ、私が強烈に味わった感覚は今も忘れない。最初の時間に試験問題を配り終え、試験が始まってシーンと張りつめた空気のなかで、私は言いようのない恐怖感を憶えた。「なんだこれは! 徹底したファッショじゃないか!」この、ぞっとする恐怖感からはなん10回やっても慣れられるものではなかった。「こんなもの.まともな試験といえるか!」。
全く1秒の狂いもない同じ時間、日本中一斉に、なん100万人だかが同じ問題、同じ答えというゲームに取り組む。それもいくつか用意された回答の中の、ただ一つの選択肢がのみが正しくなければならない。正解はなし、とか複数の答えもあり得る、という選択肢も許されない。実際自分でもヒマに任せて問題に取り組んでみたが、とくに国語で文章の解釈を要求される問題ななどは、必ずしも正解は一つとは限らない、という問題もあることを発見したこともある。でも正解は一つでなければならないのだ。
これでは人間の一番大事な考える力を奪ってしまう。生徒たちはこの試験に備えて、どうやって能率よく、早く、たった一つの正解とされるマス目を埋めるためだけの訓練を経てきているので、その能力は発揮されるだろう。だが、一部にミスや問題点はあっても全体を総合的に考えて、自分なりの決断を下す、という社会人になれば一番必要とされる大事な訓練などはそっちのけになっている。文字通り知識の詰め込みと、解答を能率よく、迅速に行う訓練だけがものをいう世界なのだ。こんなの、とうてい教育といえる代物ではない。最近は多少は改善されたようだが、それでもこのシステム自体が基本的にファッショであり、まともな教育とは相容れない。私は今でも思っている。「センター試験は100害あって一益なし」。教育のことをドイツ語で「Erziehung」という。この言葉には人間が本来うちに持っているものを「引き出す」というほどの意味合いがある。教え、育てるのではない。(札幌)
オリンピック(2) [やつあたり]
日本はベストテンにはいっているが、私はこれだけとれれば上出来だと思う。スポーツ振興のためにはこれ以上国の金を支出することはない。ピアノの世界ではそれほど国の援助を受けないでも、あちこちの世界的コンクールでたくさんの若いピアニストが賞を取っているのだ。これで、国がもっと力を入れて若いピアニストを本気で応援するなら、ショパンコンクールだろうが、チャイコフスキーコンクールだろうが、軒並み制覇することはそう難しくない。
でも私は国にそこまでして欲しいと思わない。ピアノは個人が勝手にやっていることだから、この程度でいいのだ。スポーツにしても同じことがいえる。個人が勝手にやっていることなのだから、多少の文化的援助はともかくとして、それ以上の振興策は必要ない。北欧諸国のような経済的に豊かな国のメダル数が軒並みあまりさえないのは、国全体としてのバランスから言えば健全だといえる。それでもいざとなればリレハンメルのように立派にオリンピックを開催できるのだ。(これは過去最良のオリンピックのありかたの一つであろう)
オリンピック(1) [やつあたり]
だが今回は少し違う。中国である。オリンピックをさかいにして,中国がどのような国に変わっていくのか,これには私も目が離せない。例えば,オリンピックがアメリカ開催だったらオリンピックがあろうがなかろうが,国の体制に根本的な変化など全くなかろう。自由諸国ではスポーツと政治は関係ないのだ。中国の政治的な変化についてこの辺をもう少し冷めた目で報道されるのは大変歓迎である。が,やはりこの問題もいまのところ番組の片隅に追いやられている。オリンピック、どこの国が勝とうが負けようがどうでもいいから早く終わってくれ!!!東京オリンピック開催大反対!!!こんなものに私の税金を使われるのは真っ平だ。
メディア・リテラシー教育 [やつあたり]
・・・・といわれて何のことかおわかりの方は日本人のうち何パーセントくらいのものなのだろうか。私も英語には弱いので、辞書を引いてみた。 literacy: 読み書きの能力のあること,転じて教育(教養)のあること、とある。リテラシーとは教育(教養)のあること、だとすると、その後の日本語である教育、という言葉とは意味がダブることになる。なんのこっちゃ、とますます分からなくなった。
これ、朝刊にある学者の書いた新聞記事のタイトルである。記事を読んでいったら内容から分かるようになるか、と思って読んでいったが結局よく分からなかった。たぶんこれはわたしがilliteracy (literacyの反語、つまり教養のないこと)な人間だから仕方がないのかも知れないが、業界紙ならともかく、新聞ではこのような耳慣れない言葉は使って欲しくない。すくなくともきちんと解説くらいはすべきだろう。
もっとも、このような例はふだんたくさんあって、わざわざ聞くのも面倒だからわからないままにしておくことが多いが,あるとき分かってみると、なんで日本語で普通に言えるのに英語化しなければいけないの、と腹の立つことは多い。しかしこの傾向は日本ばかりでなく、世界共通のようで、ドイツ語でも最近、なんのこっちゃ、という言葉がふえた。それはよく考えると、英語とドイツ語とが合成された言葉であることが多い。ドイツ語の場合はたくさんの言葉を一つの綴りにまとめてしまうことが多いからますますもってわかりにくくなる。
フランスのある大臣が英語で演説をした、といって顰蹙を買ったことがあったが、日本人もそのくらいの気概は持つべきだ、というのも、もしかしたら馬鹿げた結論であるかも知れない。そもそもヨーロッパの言語は、たいていもとをたどれば、結局ラテン語かギリシャ語にたどりつくことが多いのだから、ある時期、言語も、勢いのある文化圏に影響されて変化するのも歴史の流れからみればそれもやむを得ない、というのが今日の結論だが、腹の虫はおさまったわけではない。
高校の単位不足問題 [やつあたり]
このところ全国の高校で必修科目の単位を意図的に無視していた高校で単位不足が大問題になっている。私はへそまがりだから、そもそもこんなものは問題にするにたりない、と思っている。文部科学省は理想論でカリキュラムを作るし、高校は受験対策があるから本音でやらざるを得ない。こうなるのは当然の帰結。
私は子供の時から音楽家になる、と決めていたから私が小学校の時から徹底的に無視し続けたのは、数学。理科、体育、日本史、などである。音楽家になるには数学、理科は全く必要ない。足す、引く,かける。割る、くらいの計算が出来ればよいのだ。でも人は云う、「数学は論理思考を育てるのに役立つ」。しかし私は数学や理科で苦しめられ、無駄な時間は使わされたが、それで論理的思考は損なわれたとは思っていない。私は数学がいちばん不得手だった、と人に話をすると「あなたのような人一倍論理思考にたけた人が数学が不得手とは信じがたい」と不思議がる。体育も徹底的にさぼったが、それでも70までは生きたし、その間前立腺ガン以外大した病気もしていない。体育の時間も私には無駄だった。もっと勉強すべきだった、と後悔しているのは国語と英語くらいなもの。
世界史は殆どやっていないが、それでもいまは私は世界史大好き人間。高校で世界史のつまらなさを教わらなかったおかげだと思っている。日本史もこの頃おそまきながら面白くなり始めた。私はドイツへ留学したとき、日本史の知識の不足を感じて、高校の日本史の教科書を家から送ってもらった。それで読んでみても、現在必要としている私が読んでさえじつにつまらん、と投げ出したくらいだから、無理にやらされる生徒にとって面白かろう筈がない。人間、「面白い」と思うことが出発点で、それがすべての進歩につながる。学校でやるべきなのは何故歴史が面白いか、ということを生徒に理解させること。そうすればあとはほっておいても自分で勉強する。
我田引水、といわれそうだが敢えて云えば、芸術関連の授業や宗教、思想に関するいわば「人間は何故生きるか」という根本問題を教える時間はもっと必要だろう。但しこれらをうまく子供に教えることが出来る先生がどの程度いるかは疑問だが。
私が音楽大学で学生を前にするとき、ピアノをどう弾けば上手になるかはあまり教えないが、西洋音楽の面白さをあらゆる方面から、私の知識を総動員して、何故ピアノが面白いか、をわかってもらうのに殆どの精力を使っている。これがわかればわかるほど技術的問題はだいたいのところは学生が自分で解決できる、と思うからだ。