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今年最後のコンサート [ピアノ音楽]

今月はだいぶんブログの更新が滞ってしまった。いろいろ雑用に追われたせいもあるが、ブログを更新するほどのネタもなかったせいもある。

恒例の四日市とまり村コンサート。今年はバリトンの芳野靖夫さんをお招きすることができた。好きなものを歌ってください、という私のお願いに、バッハのカンタータのアリア、ヴォルフの歌曲、という渋いプロが提示された。あとはピアノのソロでやってください、とのことなのでこの流れに沿うピアノ曲を入れた。その結果:

バッハ=ブゾーニのコラール前奏曲を2曲
バッハの教会カンタータのレチタテーヴォ・アリアなどを3曲
メンデルスゾーンの無言歌を8曲
ヴォルフのゲーテの詩による歌曲を5曲

という風にごく自然な流れの歌のコンサートになり、これまで私が企画した中で、この種のコンサートとしては一番といっていいほど統一のとれたいいものにはなったが、じつに玄人好みの渋いプログラムである。流石に渋過ぎやしないか、という私の危惧をよそに、コンサートはほんとうによろこんでいただけたようである。これはもちろんベテランの芳野さんの歌唱力に負うところが非常に大きい。82歳とはとても思えないハリのある声、声量と持ち味の抜群の表現力で私自身も心からピアノを楽しんだ。




北川暁子ピアノリサイタル [ピアノ音楽]

久しぶりに北川さんのリサイタルを聞いた。ショパンの連続演奏会の一つで3番のソナタ、幻想ポロネーズなど重いものばかり。年齢を重ねた味わいのあるコンサートだった。もともと、なんでも弾ける人だが、ショパンは果たしてどうかな、と思っていたのだが、例によって淡々とした演奏で、特に変わったことをするわけでもないが、隅々まで細かい配慮が行届き、オーバーなアクションは皆無であるが、聞く人には深い感銘を与える演奏だった。私はこのブログで演奏会評めいたことなるべくは避けるようにしているのだが、これは外せないと思った。

ゆっくりした楽章やノクターンなど日本人には珍しいかなり早いテンポではあるのだが、私の性格として、思い入れたっぷり、というか、やたらと深刻めいた表現は好きではない。その結果遅い曲はむやみと時間がかかり、なんだまだやってる、とうんざりすることにもなるのだ。比較的速いテンポでもやるべき表現はきちんとやり、聞かせるべきは聞かせる、というのは決して並の能力でできることではない。日本人の弾く緩徐楽章はともすれば浪花節的にやたらともって回って遅くなりすぎる傾向にある。

近頃はやりのコンサート後のスピーチもなく、さっさとアンコールを済ませ、型どおり、というものだった。が、コンサートというものは本来それでいいのだ。いい演奏の後に余計で下手なスピーチはせっかくの音楽をぶち壊す。

作曲コンクールの予選 [ピアノ音楽]

洗足学園大学主催の作曲コンクールの予選審査会があった。譜面審査だけで、音はでない。楽譜はpdfで送られたもので、これだけで作品の良し悪しを見て、これもpdfで送られてきた審査用紙に点数を書き込み、多少のコメントとともに今日の審査会に持参する。

私が担当したのは鍵盤楽器で、ピアノ、チェンバロ、オルガン、チェレスタの独奏作品に限る、というもの。譜面だけで審査するのは大変だが、幸いというべきか、自分である程度弾いて見ることはできるので、最初の1ページ音を出して見るだけであらかた見当がつく。国内外から41曲の応募があり、審査の公平を期すため、審査員には作曲者の国籍も、氏名も、年齢も、経歴も知らされない。これは国内の多くのピアノコンクールと同じである。

審査のやり方はここでは明らかにできないが、予選であるから審査員の合計点数だけでほぼ自動的に決まるピアノコンクールとは違い、審査員の間で全く評価の異なるものは議論をして全員納得の上決定する。私の立場は、まず曲として面白いかどうか、作曲技法があるレベルに達しているか、を基準とする。予選であるから、実際に演奏して面白そうなもの、がやはり最大基準となる。

だいたい予想していたようにほとんどが調性のないいわゆる「現代音楽」であり、チェンバロであろうとオルガンであろうと変わりない。作曲技法の細かいことまでピアニストにはわからないかというとこれがそうでもない。いい曲はなんというか「譜面づら」がいいのである。譜面づらの悪いものは概して作曲技法がなっていないことが多い。これはピアノの上手下手を見るよりもっと極端である。かくて、ピアノ作品が5曲とオルガン作品が2曲、来年4月、一般公開で実演で審査する本選作品が選出された。

ピアノコンクールには慣れっこになっている私にも「作品」を審査するのは、新鮮で楽しい仕事であった。そういえば作曲のコンクールというものは日本ではそうたくさんあるわけではないから、若い作曲家が挑戦するにはいい機会であろう。

低年齢化しつつあるピアノの成熟度 [ピアノ音楽]

今日、ちょっとびっくりする才能に出会った。日本ショパン協会の主催する表参道のリサイタルシリーズの出演希望者の選考会である。この選考会は主に書類で経歴をみてあとは提出された録音物をある程度聞いてリサイタリストとしてふさわしいかどうか判定する。

全部の演奏をきくわけではないから、本当にそうかどうかは実際のリサイタルの成果を待つしかないが、年齢、音楽歴、コンクール歴、師事した先生、リサイタルで弾く予定のプログラム、提出されたCDなどから判断する。例外はもちろんあるが、だいたい以上の資料である程度までの判断はつくものである。

前にも拙ブログで述べたことだが、ピアノ人口が減っているのと正反対に、すばらしい若い才能は以前にもまして増えていることはあちこちでよく感じて心強く思っている。まだ名前をここに出すことはできないが、こんなケースはどうだろう。

16歳、男子。おそらく高校生である。演奏希望曲目:

ショパン スケルツォ全曲
バラード 第4番
タランテラ
シマノフスキ マスキ 全曲

超大家であってもビビるプログラムではないか。経歴を見ると12歳でプロコフィエフの3番のコンチェルト、三善晃のソナタの演奏経歴があるという。小学生でプロコフィエフの3番を弾く!実際の演奏を聴いたわけではないが上手下手はともかくとしても、これはもしかするとこの難曲の演奏の最年少記録かもしれない。なお、推薦状に先生の指導方針として才能を台無しにしないようコンクールは受けない、ともある。この先生もまたコンクール一辺倒の日本の中にあってすごい信念! 先生のお名前は失礼ながら私はまだ耳にしたことがない方であるが日本人。もちろん、ピアノは早くから難曲が弾ければいいというばかりのものでもないが一つの指標にはなる。日本のピアノ界、まだまだ面白くなりそうである。

ショパンのコンチェルト弦楽六重奏版 [ピアノ音楽]

のびのびになっていたが、どうやら草稿が一通り出来上がった。あとは修正を加えて行く作業が残るだけだが、これはもういつまでたってもキリがないからどこかで見切りをつけることになろう。ショパンの思考範囲からは決してはみ出ないが、見る人が見るとかなりマニアックなものになった。

コミネックによる弦楽四重奏用ポーランド版に不満を覚えて、なんとか改良したいと思いながら、もうだいぶん年月が経つ。六重奏版の長所は全体の響きの重厚さと、ピアノソロとのバランスの良さ、これに尽きる。一番最後になった第一コンチェルトもフィナーレの複縦線を昨日引き終わった。

こんなことは私のごく小さな仕事であり、単なる私の独りよがりに終わってしまっているのではないか、と思わないこともなかったが、実際の演奏を客観的に聴いて行くうちにまあ楽譜にして残しておく価値はあるかもしれない、という感じに変わってきた。作曲家の編曲との違いは、自分が何度もオケとステージで共演した経験、それと弦楽四重奏団などとの室内楽の経験などから、どのように弦楽器を扱い、ピアノも含めて全体としてどのように響かなければならないかを理屈でなく現場を肌で知っているので、どこか一味違うはずなのだ。

既に出来上がっているショパンのオーケストラ付きの4曲、Op.2, Op.13, Op.14, Op22に加えて二曲のピアノコンチェルトで全ての弦楽合奏版が揃ったことになる。ピアノコンチェルトにはそれぞれ五重奏版、六重奏版の二種類が揃うことになった。ポーランド版に不満を持つ方はためして見てください。

千葉日報社+千葉少年少女オーケストラ [ピアノ音楽]

千葉日報社主催のピアノコンクールも23回になるが、今年は地元の少年少女オーケストラとピアノコンチェルトのコンサートが千葉文化会館で実現した。これは私がかねて提案していたものであるが、コンクールは入賞者を決めてそれでおしまい、ということではだめだから、入賞者がその後どのように成長し、ピアニストとしてキャリア築いてきたかを問う場として非常に意義ある事と考える。

最初、千葉少年少女オーケストラ(20才までその資格がある)の話を聞いたとき、その実力のほどが不明だったので、これまで重ねてきた公演の録音を聴かせてもらったが、なかなかの内容と実力であるので、このオーケストラと千葉コンの入賞者を一緒に演奏させる事ができればとても意義のある事だ、と考えた。

それが昨日実現する事になったというわけで第一回だから私も出席した。できばえは私の予想を超えるもので、根津理恵子さんや、黒木雪音さんなど、既にキャリアを持つ人もいて、この種のコンサートには珍しく、会場は非常に盛り上がった。こういう形で大成功をおさめたのをうれしく思うと同時に、毎年は無理にしても、時折こういう催しができれば、千葉の音楽パワーはすごい、という評価が定着する事と期待している。

ミハイル・プレトニョフ [ピアノ音楽]

プレトニョフ、といえば19歳でチャイコフスキーコンクールで優勝して以来、天才的ピアニストとして知られてきたが、かなり前から、指揮者として活動するため、としてピアノ演奏活動は休止する、と宣言していた。ところが最近、モスクワのチャイコフスキーホールの片隅におかれたカワイピアノをみて、こんな素晴らしいピアノがあるなら弾いてもいい、と思いなおしてピアノ演奏を再開した、というのである。これはカワイピアノの宣伝筋から聞いたものではなく、コンサート後のレセプションで直接プレトニョフから聞いたのだから本当なのであろう。事実今回の日本を含むアジアツアーでは全部カワイピアノが使用されたようである。

コンサートは津田ホールで限られた関係者だけに無料で招待されたもの。プログラムはシューマンのフモレスケを中心にモーツアルトやベートーヴェンのソナタなど。演奏はもちろんどれも素晴らしく、アンコールで弾かれたショパンのDes-durのノクターンは絶品と言っていい。レセプションは京王プラザホテルで開かれたが、ごく少人数のこじんまりとした雰囲気だったので直接彼からいろいろ面白い話を聞くことができ、話はずいぶん盛り上がって会が終わったのは11時を回っていた。

私が一番たずねたかったのは、「あなたをもう一度ピアノを弾こう、と決心させたカワイピアノとスタインウエイとの違いは何ですか」。これに対してずいぶん長い答えが帰ってきた。要約すれば「まず、アクションが違う。ピアノ以下の弱音、最弱音、最最弱音のコントロールが自分の思い通りに完璧になる。次に「音」。スタインウエイに不満を持っていたsinging soundがカワイピアノはすばらしい、これこそがピアノにとって最も重要なこと」。そして最近のスタインウエイは「全く歌わない味も素っ気もないもの」とこき下ろした。ちなみにプレトニョフ自身は自宅でブリュートナー(何年ごろのものかは聞きそびれた)を使っているそうだ。

ここではプレトニョフ発言に対する私のコメントは差し控える。だいぶん昔になるが、リヒテルがヤマハのピアノを絶賛して愛用したことはよく知られている。いずれも外国のピアニストによって日本製のピアノの真価が知られるようになったが、肝心の日本のピアニストはスタインウエイ一辺倒である。深読みをすると、ヤマハとカワイはライバル関係が強いのでどちらかのピアノ会社に肩入れをしすぎると自分の首を締めるようなことになりかねない、という本能が働くのかもしれない。しかしふたつの大きな会社が互いにライバル意識を持って長年切磋琢磨した結果、今の状況にまできているのだ。この高い水準は中国にもいまやずいぶん多くの中国製独自のピアノ会社があるにもかかわらず、中国も韓国も絶対真似のできない、日本で一般にはあまり知られていないが日本の誇るべき「耳」と技術、といえる。半世紀以上にわたってその進展を見続けてきた私は、少々技術が流出したくらいで真似のできるような皮相なものではないことぐらい理解できる。

レセプションでは他にもびっくりするような興味深い話題が山ほどあって、楽しい時間だったが全部ここでご紹介し切れないのを残念に思う。

モーツアルト=クレメンティ 交響曲40番 [ピアノ音楽]

頂戴したものの、一度も聞いてない、というCDが山ほどある。ずいぶん前に頂いたまま、お蔵入りになっていたものを整理していたらこんなものが出てきた。モーツアルト生誕250周年を記念したライブコンサートの一部である(私家版なので一般に発売されたものではない)。モーツアルトの交響曲40番をクレメンティの編曲した室内楽版である。編成はフルート、ヴァイオリン、ピアノ、チェロの四重奏。ピアノは私の芸大時代の同級生である小川京子さん。

海老沢敏氏の解説によればクレメンティは40番以外にも「リンツ」「プラハ」「ハフナー」39番、「ジュピター」などの編曲があり、クレメンティの自筆譜も残っているのだそうである。当時、(この曲が編曲された1814年ごろ)ロンドンではまだモーツアルトがそれほど一般に知られていなかったので、モーツアルトを高く評価していたクレメンティが普及の目的で一般に演奏しやすいように、と室内楽版を出版したらしい。編曲者がモーツアルトとピアノがどちらがうまいか、と競演した当のライバルであるクレメンティであるところが面白いではないか。モーツアルトがクレメンティをさんざんこき下ろしたのを彼が知らないはずがない。

編曲マニアとして大変興味深く聞いた。編曲がクレメンティだから、ピアノのパートがむつかしく書かれているかといえばそうでもなさそう。モーツアルトを普及させる、という本来の目的からすれば当然の配慮であろう。それにもかかわらず、充実した編曲でなかなか聞き応えがある。いつも思うのだがオーケストラ作品をうまくダウンサイズするとオリジナルでは聴けない、作品の細部の良さが詳細に伝わる、という利点がある。現代はオリジナルがいくらでも聞ける時代だからこんなものは必要なさそうだが、作曲家が細部に施した見事な彫琢がよりよく見える、という大きな利点によって現代でも存在理由があると思う。それと、ピアニストが自分で演奏に関われない、と諦めているオーケストラの名曲が自分もその恩恵にあずかれる意味は大きい。

即興演奏のベテラン [ピアノ音楽]

カールスト・デ・ヨング先生というアムステルダム・コンセルヴァトアールの教授で即興演奏をみずから実践し、体系的に学生にも指導している先生が来日されるから、興味があったらお会いしてみませんか、と洗足学園のO先生からお誘いを受けたので、昼食をはさんで、いろいろ興味深い話を伺う事ができた。以下は誘ってくださったO先生へのお礼かたがたと私の即興演奏観も披露した私信である。


今日は大変楽しいひとときをありがとうございました。帰宅してカールスト先生のCD早速聞いて見ましたが、やはり即興というものには、音楽に関するあらゆる知識、スタイル、趣味、演奏技術など総合的なものが期せずして表れる、というものを改めて認識しました。カールスト先生はそういう意味で真の音楽家である、と大変感銘を受けました。

そして日本の音楽家、もしくは音楽教育におしなべて欠けているものが即興であり、それは20世紀になって作曲家と演奏家が別の職業として日本に輸入された結果であると思います。ただ幸田延の伝記を読むと、彼女は西洋音楽を作曲家と演奏家を一つのものと捉えてヨーロッパから帰国したようですが、残念ながらそれは日本には根付きませんでした。もちろん少数ではありますが、最近の若い世代のピアニストでこういう即興能力を持つ人も私は何人か知らないわけではありません。ただそれは個人の能力ないしは趣味にとどまっていて、教育現場では全く手がつけられていません。これはカールスト先生も言われていたように、ヨーロッパでも大部分の教育機関もそうであるようですが。

この種の即興能力は人前でやる、やらないは別にしても、演奏に際しての解釈に大きな影響を与えるもので、これを知らないでは、やはりその人の演奏は単に良く模倣されたにすぎないものにとどまる、というのが私の即興観です。私はもう年寄りですが、若いこれからの人に、これはぜひ身につけて欲しい、とつねづね学生には言っているのですが反応はいまひとつ、という感じです。時間はかかるでしょうがこれからの音楽教育の課題だと思います。よろしくお願いいたします。

もともと私も即興が嫌いな方ではないのですが、カールスト先生にはとても及びませんけれど、帰ってからも触発されて、30分くらい一人で即興を楽しみました。誰かに聞かせるものでもないよなあ、と思いながら。。。。

あらためていい機会を与えてくださったことに感謝いたします。


クララ・シューマンピアノ曲全集(続き) [ピアノ音楽]

16歳ごろのクララの作品を見るのはまことに興味深い。ローベルトのクララへの思いは、彼の作品の中にクララの主題があちこちに見られることでその胸のうちが伺える。先述の4つの性格的小品の第4曲のテーマは、ローベルトが作曲しつつあった第一ソナタに表れている。クララのファンダンゴの主題は減5度の、まさに魔女の踊り(Hexentanz!)ともいうべき、薄気味の悪い音程の動機は誠に秀逸なものであるが、減5度の連続という音程は長大な曲の展開には不向きである。これに対し、ローベルトは主題を同じリズムを使いながら、音程だけを完全5度に変え、長大なソナタ形式にふさわしい、発展性のある素材に変化させてソナタの重要な発生動機とした。クララ、ローベルト、どちらの発想もただものでない。


それ以外にも、謝肉祭のなかの「ドイツ風舞曲」(メヌエット)、ノヴェレッテ第8番中間部の「遠くよりの声」(ノットゥルノ)、ダヴィド同盟の舞曲の冒頭主題(マズルカ)、などなど、探せば二人に関連性のあるモティーフはほかにも見つかるであろう。重要なのはクララの作品の中で、とくに個性的で類をみない「発生動機」をローベルトが見逃していない、ということである。クララは自分に十分創作の才能があることを自覚しながらも、作曲家の道を選ばなかった。むしろピアノのヴィルトュオーゾの道を選んで、夫やショパンやブラームスの作品を精力的に演奏して世に知らしめた。歴史に「もし」はないが、ローベルトが、ではなく、クララが手を痛めて、創作の道に進んだら音楽史はずいぶん変わったに違いない。

ところで、二人の結婚に反対して裁判で負けた父親のフリードリヒ・ヴィークはその後どうなったか。
ピアノ教師として、すぐれた見識を持ち、その名声は全ヨーロッパに行き渡っていたヴィークは、メンデルスゾーンが開校したライプツィヒの音楽院の教授の候補に上がっていたほどであった。しかしそれは叶わず、結局モシェレスが選ばれた。クララも音楽院の教授になっていたから、裁判の一件がヴィークのその後の生活に大きく影を落としたであろうことは想像に難くない。
(お台場、日航ホテルで記す)

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