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日本に来たP8とS10(2) [ドイツの蒸気機関車]

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 S10は:
(1)ボイラーの位置が高いこと(そのぶん動輪の直径を大きく取れる)。(2)C型の機関車はふつう第2動輪にコネクティング・ロッドが来るが、これは第1動輪に短いロッドで動力が伝えられる。(3)(1)と関係するが、その頃アメリカの技術からきた台枠を厚い金属板からぶち抜いた頑丈なもので作られている。これら3つの特徴を備えていて、プロシャから日本に輸入された8850はこの特徴をことごとく踏襲している点、S10の生き写しなのである。

 これらの他、やはりテンホイラーがイギリスのノース・ブリティッシュ社から輸入された。他にはアメリカのアルコ社のパシフィック(シンプル2気筒)が輸入され、前者は8700,後者は8900と命名された。これら8700,8800,8850(以上いずれもテンホイラー),8900(パシフィック)の合計4形式がそっくり日本で多数模倣製造され、1912年以降の重量急行用として大活躍することになる。日本の高速、重量列車牽引の幕開けである。だがなにやら今中国が先進国から高速電車を片っ端から輸入して、自国産と称してコピーを作っている図と酷似してはいないか。

 以前のブログでも書いたように、この時期あたかもウイルヘルム2世の宮廷列車全盛時代であり、S10はその先頭に立って活躍していたことと重なる。これよりあと、ドイツと日本ではアメリカの影響からか、国内生産される機関車はシンプル2気筒が定着することになり、イギリス・フランスではバランスド・コンパウンドの3,4気筒の機関車が引き続き主流を占めるが、その理由はまた別の項で述べる。(この項とりあえず終わり)

日本に来たP8とS10(1) [ドイツの蒸気機関車]

 このタイトルは正しくはないが全くのまとはずれ,というほどでもない。1910年,日本はロシアに辛うじて勝利を収め,双方で結んだ日露条約の中に,鉄道マニアにとっては見逃せない項目がある。それは東京から下関,朝鮮経由でシベリア鉄道を通り、直通ではないが連絡しながらパリまで到達できる列車を走らせる,という壮大なプロジェクトであった。掛け値なしのオリエント・エクスプレスである。その条約達成のため,日本では東京から大陸連絡船の港である下関まで,国際列車級の3軸台車をはいた1,2,3等急行を走らせる必要が生じた。

 当時の日本はまだ急行用は2—B型の機関車が主流であり,これではとてもパワー不足で、曲がりなりにも国際列車を走らせるにはとても無理。新しい強力な機関車を導入しなければならない。それには動輪が3つあるC型が絶対必要とされた。当時まだ日本の技術では動輪の3つある機関車を開発することはできなかった。したがって輸入に頼らざるを得ない。
 
 そこで目を付けたのが当時のプロシャですでに定評のあったP8,さらに最新鋭のS10というわけである。最初にボルジッヒに依頼したのがP8の狭軌版である。最新技術の過熱式を条件に加えることを忘れなかったのはさすがというべきか。この機関車は日本では8800型と名付けられることになる。ついで,当時急行列車用のエース,S10をモデルにした日本名8850型。いずれも2—C型のテンホイラーという共通項はあるがS10の方は当時の日本の技術者の目から見て,かなり奇想天外にうつったようである。(この項続く)




なぜドイツは2シリンダーにこだわったか [ドイツの蒸気機関車]

 私が理解に苦しむのはプロシア時代に培った4シリンダーの技術が、なぜDRになってから保守的な2シリンダーが主流になったか、ということだ。そしてその影響をまともに受けた日本のSLはずっと終わりまで2シリンダーでありつづけた。狭軌だから、シリンダーを4個つけるスペースがない、ということはいいわけにならないようである。オランダで製造したインドネシア向けの狭軌用機関車は4シリンダーであり、日本の「燕」より速いスピードが出せたという。日本はDRの保守的なところまで学んでしまったようである。

 2シリンダーだと4シリンダーに比べてどこが悪いか。時速160キロ以上の高速になると動きがスムースに行かなくなり、乗り心地が格段に悪くなることと、路線に与えるダメージが深刻、ということのようである。だから試作に終わったとはいえ、05(3シリンダー)のように200キロの記録を出すためには2シリンダーでは限界を超える。2シリンダー機で限界まで営業運転に耐えたのは61001であろう。01は実用速度がせいぜい120キロくらいが限度と考えていたから、わざわざ複雑な4シリンダーにするメリットはない、と考えたのかも知れない。まして日本ではせいぜい90キロ運転くらいだったから金と手間のかかる4気筒はいらない、となるのは当然の成り行きであろう。

 C53の3気筒は部品を外国のものに頼ったために調達がうまく行かなかったことと、当時の日本のエンジニアに難しくても何としてもこのシステムをものにする、という情熱に欠けた。日本で3気筒がもう少し日本流に発展したならばそれ以後のSLはもっとちがったものになっていたかもしれない。

 ちなみにアメリカでは大型機であっても主流は2シリンダーだった。4シリンダーが進歩的で2シリンダーは保守的、というように単純に色分けすることはあまり適当でないようである。もう一つ忘れてはならないのは機関車の設計にあたって、使用する地域や国で、どのような質の石炭が調達できるか、ということが重要な要素になる。
 

01,02そして・・・ [ドイツの蒸気機関車]

 蒸気機関車の歴史を改めて勉強し直している。素人だからどのみち専門的なことは分からないがそのおおまかな流れをつかむことで、ドイツの機関車、日本の機関車の位置づけを自分なりにもちたい、と思ったからである。産業革命以降、蒸気機関車先進国はつねにイギリスであった。それにつれてフランス、ドイツでもそれぞれの国柄に応じた機関車の発展の歴史はあったが、スピードよりはむしろ大量輸送、という点でのちのアメリカが蒸気機関車の主流となる、という大まかな流れになろうかと思う。

 統一ドイツ以前でもっとも成功したドイツの機関車は4シリンダーのS3/6であることは疑いのないことであろう。またP8は過熱蒸気機関車として多分はじめて実用化に成功した機関車として画期的といえる。そしてその影響もあって、日本の蒸気機関車は過熱式が以後定着することになる。

 第2次大戦前にS3/6やS10の後継機としてリヒアルト・パウル・ワーグナー率いる新型機の開発が模索されていた。2シリンダーの01と4シリンダーの02が試作された。多くの議論の末、当時ドイツの辺境地域では4シリンダーの扱いが難しかったことと、コストの面から結局2シリンダーの01が採用されたということらしい。こうしてみるとドイツや日本で半ば神格化された01というのは蒸気機関車の歴史の流れで見ると、とくに画期的なものとはいえず、2シリンダーにこだわった01(後に3シリンダー化された)は機関車としてはいわば凡作、というのがいまの専門家の評価のようである。とはいえ、私はやはり01は大変好きで技術的な進歩とは別に人を牽きつけるプラスアルファの何かがこの機関車にあることは確かだと思う。

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