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ピアノが上手になる人、ならない人 [Literature]

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夏休み返上で取り組んだ上記のタイトルの本が完成し、春秋社の高梨さんに完成見本を持参してもらった。製本も紙も上質で活字も大きく読みやすいものとなっている。書き進めている間は一体どうなることやらと思っていたが、雑然と書きためたものをさすが編集のプロ、どうにか不自然でなくまとまっている。基本的には高校生、大学生あたりの一番ピアノの伸び盛り、しかも悩みも多い年頃の人たちを主たる対象に書いたものである。やや上級向けのピアノ演奏の手引き書としては、世の中に案外類書が少ない、というところがねらい目である。ピアノの本というのは、ごく初歩者のための入門書か、もしくは、哲学的内容の域に達する芸術的ピアノ音楽論、のどちらかに偏る傾向があって、中間層向けの適当な実質的な啓蒙書があまりない、というのは常日頃感じているところで、それに日本的特殊事情が重なるともっと数は微々たるものになる。


ピアノに関する本は、日本外国を問わずたくさんあるから、そこに屋上屋を重ねるようなものをやるならやる意味がない。何かそれなりの特徴を打ち出せなければダメなので、私なりに工夫をし、時には脱線しながらも何とか出版にこぎつけた。 あとは世の評価を待つしかない。最後のミスをチェックする「読み合わせ」は全く音楽とは関係のない分野の人に読んでもらうのだそうである。専門家だと、内容があらかじめわかって読むから、基本的なミスを見逃しやすい。これは楽譜の校正も同じことが言える。読み合わせに関わった人の感想としては「なんか、世阿弥の花伝書のような趣ですね」。この比較はいくらなんでも恐れ多いが、これ以上の褒め言葉をもらったことは生涯を通じてない。

自費出版ではない、出版社の依頼による本としては専門書を含めれば五冊目になるが、多分もうこれが私の最後の本になるだろう、という予感もあって念をいれたつもりであるが、最終的にもう一度自分の目で確かめる時間がなかったこともあって、ざっと目を通しただけですでにいくつかミスを見つけた。ショックである。言い訳になるが出版にも一番いい時期というものがあるのだそうで、秋にどうしても間に合わせたい、という出版社側の強い意向で私としては仕方のない面もあった。自分は物書きではないから悪文は仕方がないので、内容で勝負するしかない。本は近々書店に並ぶ予定とのこと。

幸田延の「滞欧日記」 [Literature]

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 さっそく、瀧井敬子さんから送って下さったのだが、これは実に面白い。学者らしく、幸田延がヨーロッパで聞いたコンサートの現地図書館の確認作業まで行われている念の入ったもので、当時の日本の音楽状況もだが、1900年前後(この日記は1910年頃)のヨーロッパの音楽事情、音楽教育事情を垣間見ることが出来るのは貴重な文献といえる。延さんはいろいろなレッスンの現場を見学して克明に記録にのこしている。

 パリのコンセルヴァトワールで、ガブリエル・フォーレ学長同席の卒業試験について、各楽器の一人一人に曲目とコメントなどがついていて、幸田延、という個性の強い辛口批評で、生徒たちは、ほとんどがかわいそうにコテンパンに書かれているのだが、それを少し差し引いて読んでも当時のコンセルヴァトワールの卒業試験のレベルはそれほど高いものではなかったようである。また、モーツアルトのレクイエムの合唱がひどい、これなら東京音楽学校の合唱の方がマシだ、とさえ言ってのける。

 R、シュトラウス自身の指揮のコンサートとか、ニキッシュ、モットルといった当時世界最高の指揮者のコンサートであってもかなり厳しい目で見ている。何でもかんでもヨーロッパは素晴らしい、などと思わないところが幸田延の面目躍如たるものである。しかしそういう勝ち気な性格がたたったのか、40才で東京音楽学校(現在の芸大)のピアノの教授の職を体よくクビにされてしまい、非常に悩んだところも赤裸々に描かれている。いまなら多分裁判沙汰になるところであろう。

 日記はドイツ語でかかれたものや、日本語のものがごっちゃになっているが、原文をそのまま残した上、詳細な訳文と注釈がある。

エルヴィン・ニレジハージ [Literature]

「失われた天才(Lost genius)」と題するピアニスト、エルヴィン・ニレジハージ(1903−1987)の評伝で、カナダのケヴィン・バザーナというグレン・グールドの研究で知られる人の手によるもの。ニレジハージはハンガリー系のユダヤ人で、日本で2度公演を行っているから、年輩の方は直接演奏をお聞きになった方も、もしかするとあるかも知れない。私は当時、名前だけは聞いていたものの、聞き逃したのはいまとなっては惜しいことをした、と思っている。

 日本公演はもうだいぶん技術も衰えてからだったので、おおかたのピアニストはあまり評価しなかったようだが、面白いのは、邦楽畑の人がニレジハージに入れあげて、アメリカまで押し掛けて直接談判の上、無理やり自費で招聘した、といういわくがある。おそらく、最盛期にはクラウデイオ・アラウなどと肩を並べるピアニストであったらしいが、エキセントリックな性格が災いして、現代のリストになり損なった、という評伝である。

 予想もつかない、想像を絶するような演奏をするのだが、自分はピアニストではない、というだけあってレパートリーは普通の人が弾くものはあまり弾かず、(もちろんその気になればピアノ曲は何でも弾ける)ベルリオーズの「幻想」やラフマニノフの交響曲をピアノで弾く、とかそれもほとんど練習もしない、というような人で、ブゾーニ・ラフマニノフ・リストなどと比較されるのは許せるが、ホルヘ・ボレット、ホロヴィッツなどという「小物」と比較されるのは我慢がならない、という人物なのだ。

 この評伝は、全世界に人脈があるニレジハージが、歴史に残る大音楽家との交流などを通じて当時の世界の文化的背景を知る面白さがある。アルコール・セックス・ピアノがこの人の生きがいで、ピアノを弾く以外はカフスボタンすらはめることができない生活不能者。いまの精神医学でいうADHD (発達障害)の極端な例であろう。(春秋社)

ピアノの練習室 [Literature]

 1988年に出版したものだが、何回か版を重ね、廃版になってからも在庫の注文が絶えないので、再版をしたいが、という問い合わせが春秋社から届いたのは昨年暮れのことである。
改めて見直してみると、かなり不備な点も目立つし、あれから24年もたつのだから時代にそぐわない表現も散見される。いまだに読み継がれているのは大変光栄に思うのだが、このまま再版されても自分の不本意なところを残したまま世を去ることになる。ピアノの音は消えてくれるけれど、本は消えてはくれないのだ。

 そこで、(1)足りない項目を新たに書き起こし、すでにある部分も全面的に見直して再版する、(2)全く別な観点から新たにピアノの本をもう一冊書き下ろす、の二つを提案して検討した結果、とりあえず(1)でいきましょう、ということになった。(2)については私は文筆の才能はないし、やり始めても生きてるうちにはたして完成するかどうかはなはだ心もとない、ということで編集長との相談の結果そういうことになった。

 いつでもいい、となると私は絶対やらないだろうから、すくなくとも今年一杯には、と期限までしっかりつけられた。がんばってやります。

方丈記 [Literature]

 「行く川の水は絶えずして、しかももとの水にはあらず」の書き出しに始まる、鴨長明の「方丈記」がこのところよく読まれているという。何しろ、900年も前の文献だから私の貧弱な国語力でどこまで正確に読めているかは保証の限りではないが、まあおおよそのことはわかる。昨年は大地震、原発事故、台風、大雪など史上まれな多くの災害が重なったこともあって、日本という国がいかに過酷な自然環境に置かれているかが改めて身にしみ、この古典から何かを学ぼうとしている姿が伺える。

 「方丈」とは自分の身の丈、だからせいぜい2,3メートル立方程度の仮の小屋に住まう、という鴨長明の50才(当時としてはまれな長寿であろう)の出家の記である。立派な屋敷も財宝も、自然の猛威の前には無力であり、なにも当てになるものはないから、いつでも住まいを移せるような質素な生活がいい、という無常観が底に流れている。バブルでかつてない繁栄を見た日本、そしてだいぶん落ちぶれた日本の現状を見るにつけ、この書が人々の共感を呼ぶのであろう。

 数百年も続いた京の都が大火事で2/3も焼けてしまい、天皇が難波に都を移すがうまく行かなくてまた京に戻る、人々のうろたえる有様が描かれているが、もし東北大震災が東京で起こったならば、多分こうなるのであろう、と思い知らされる。誰も東北の地には興味を持たず、西の方ばかり考えている、というくだりはそのまま現代にも当てはまるのではないか。東京に原発を造らず、東北に持って行き、その災害に未だに誰も責任をとろうとしない姿は900年昔も今も変わっていないようである。

ピアニストの脳を科学する [Literature]

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 興味深い本が出された。「超絶技巧のメカニズム」という副題がついていて、脳科学者であり、ピアニストを志したこともあるという古屋晋一氏の著書(春秋社)で人気が出ていて出版元にも品切れ状態、という。

 超絶技巧の曲を易々と弾きこなすピアニスト、あの複雑な楽譜を暗譜して演奏する能力、はじめての曲をすぐ楽譜から理解して演奏する能力はどのようにして獲得されるか、を脳科学者の観点からアプローチしたもので、ピアニストとして一応のレベルに達した人ならほとんどが「どうして?」と疑問すら抱いたことのない不思議な能力の科学的解明を試みている。

 中でも特に私の興味をひいたのは、多くのピアニストが「腱鞘炎」などに悩まされて休業を余儀なくされる「職業病」についても科学的に踏み込んだアプローチがなされていて、

(1)腱鞘炎
(2)手根幹症候群
(3)フォーカル・ジストニア

という主に3つの職業病についての記述は、ピアニスト、ピアノ教師にとっても非常に参考になる部分で、レオン・フライシャーやミシェル・ベロフなどもこの(3)の範疇にはいるのだという。「フォーカル・ジストニア」などという名前は聞いたことすらなかったので、これはよく吟味する必要があると思った。さらに、このようなピアニストの宿命ともいうべき職業病は、クラシックの演奏家のみに見られる現象でジャズピアニストにはほとんど見あたらない、というのも興味深い。たぶんクラシックのピアニストはコンクールでもコンサートでも楽譜通りに完璧に間違えないように弾くのがプレッシャーとして脳細胞に働いている結果ではないか、というくだりはなるほど、と納得させられる。 ピアニストの腱鞘炎をはじめとする職業病は指や手という器質に由来するものではなく、脳神経科学の量域に属する、という指摘には目から鱗が落ちる思いである。一読をおすすめする。

 ただし、「ピアノを弾く能力を維持、向上させるには3時間45分以上の毎日の練習量を必要とする」というくだりは、「個人差が非常に大きい」と考えた方がいい。

長崎の鐘 [Literature]

 今回の旅行は長崎から札幌へ直行した。いくら飛行機が速いといっても直行便がないので乗り換えの待ち合わせやら何やらで、やはりこれだけで1日仕事になる。機内で読むために空港の書店で長井隆博士の「長崎の鐘」を買う。この本は映画にもなり、その主題歌はヒットにもなったから、私の世代の大多数の人がこの本には何らかの形で接しているはずである。長崎の原爆に遭遇し、原子病(と彼は呼んだ)のさまざまな体の不調に悩まされながらも精力的に医療活動を続け、二人の遺児を残し、若くしてなくなった。

 原爆が長崎に投下された瞬間から、その後の地獄といってもいい凄惨さを余すところなく伝え、もう一方で科学者、医師、キリスト教徒としての目で冷徹に原子力というものの威力を見据えている。ちなみに戦時中日本でも原子力の開発は進められていたが、金ばかりかかってものになりそうもない、ということで中止を命じられている。

 原子のもつ巨大なエネルギー、それに放射能については当時のほとんどの日本人は何も知らなかった。投下された原子爆弾も政府の規制もあって「特殊爆弾」と呼ばれていた。そしてこの本はあまりのリアリティのゆえ、戦後アメリカの占領軍によって発売禁止にもなった。

 放射能のもつ人体への影響を、即死、数時間後の死亡、1週間以内での死亡、それ以後の放射能が原因の白血病のガン死にいたるまで,いまわたしたちが福島原発の事故で遭遇している様々な放射能の直接的な影響がこのときすでに科学者,医学者の目で詳細に観察されている。改めて読んでみて、啓発されるところが多い。今回の大震災,福島の原発事故と頭の中で2重写しになったような錯覚を憶えた。
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