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ドン・ジョヴァンニ [オペラ]

 まことに恥ずかしい話ではあるのだが,モーツアルトの傑作、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」をこれまで見ていない。もとより、この中で歌われるアリアの数々は有名なものが多く、たいがいは自分でピアノで伴奏をしたことがあるか,聞いたことがあるか、いずれにしてもなじみの深い音楽が多い。私はオペラを見る前には可能な限り、対訳の台本を読むだけではなく,オケのフルスコアに一通り目を通しておく。そのため、私の楽譜棚は分厚いオペラのスコアが相当の部分を占めている。

 はじめて、このオペラを観るにあたってスコアを買い込んで楽譜を読んでみると、やはり知らないことは多いものである。モーツアルトの音楽は概してそう複雑ではないから、ピアノ譜を見ればオーケストレーションはおおよそ見当がつく,と思い込んでいるのは大間違いであることに気づかされた。例の一番有名な誰でも知っているト長調のメヌエット、第一幕の舞踏の場面で使われる音楽。じつは、三組の登場人物がそれぞれの思惑をかかえて踊る場面なのだが、ここでは、合計4組のオーケストラが使われる。オケピットにいる、本来のメインのオケは全休止。残りの三組のオケが舞台上か,舞台裏かで使われるのだが、(モーツアルトの指示では全部舞台上で auf der Buehne)第一オケが3/4拍子でメヌエット、第2オケが2/4でアルマンド、第3オケが3/8でフォリア、という、3つのまったく拍子の違った舞曲が同時進行で演奏される。当然スコアは非常に複雑な様相を見せている。小節線がオケごとにみな違う位置にあり、現代音楽さながら、といったところ。

 が、スコアを見ないで,音楽だけを聴いている人は(ほとんどの観客がそうであるわけだが),こんな複雑な仕掛けが隠されていることには気づかず、実に明快でわかりやすい音楽として聞き取ることができる。このメヌエットは一番単純でわかりやすい音楽としても知られる。モーツアルト,恐るべし、である。

グラス・ハーモニカの効果 [オペラ]

 このオペラに精通しているわけではないのでドニゼッティの指示通りかどうか正確なところはわからないが、「ルチア狂乱の場」開始の部分にグラス・ハーモニカが使われるとは、ピアノスコアからの予想をこえていたので仰天した。このめずらしい楽器は、例えばごく薄手のワイングラスに水を入れ、濡れた指でグラスの縁を軽くなでるとキーンという独特の響きがすることを経験された方は多いと思うが、これを楽器としてあつかったものである。

 この楽器の歴史は古く、モーツアルトがすでに「グラス・ハーモニカのためのアダージョ」という小品を作曲していて、何10年も前に私はこの東京文化会館で実演に接したことがあるのでよく知っていた。天上から聞こえてくるような独特の響きがあってこの世のものとも思えない美しい響きが出るが、長く聴いていると少しあたまがへんになる効果があるので一時禁止されたことすらあったときく。

 すでに正気を失っているルチアに幻影で恋人のエドガルドと一緒にいて彼の声が聞こえる、という場面でのレチタチーヴォの特殊効果としてこの楽器が使われた。私は最初の1音で即座にグラスハーモニカであることは分かったが、このかなり風変わりな楽器を実際に使い、劇場でいかに驚異的な効果を上げるかをまのあたりにみて、絶頂期の天才ドニゼッティの凄さをみた思いがした。

 

 

ランメルムーアのルチア(3) [オペラ]

 ずいぶん混乱したことが見て取れる。演奏の話ではない。歌手やキャストや指揮者が変わり、最終的なキャスト表がペラ1枚のパソコン印刷のにわか作りである。本来のプログラムにするはずであった立派な冊子は無料で配られた。本来なら当然何ヶ月も前にソールドアウトのはずなのに8割程度の入りである。もったいない。招聘先であるジャパン・アーツの社長に多少の裏話を聴いたが実現までに薄氷をふむことの連続だったようである。特別な敬意を表したい。

 主役のルチアはDiana Damrau,エンリーコはZeljko Lucic,エドガルドはPiotorBeczalaなど、さすがメトだけに国籍もさまざま。18:30から22:00まで、十分に堪能したが特に重要な役柄の3人、急な変更にもかかわらず素晴らしい歌唱と演技を堪能させてくれた。最近は日本でも本格的なオペラはそうめずらしくなくなったが、やはりこのメトのクラスとなるとそうそう日本で見られるものではない。本当は私はオペラは大好きなのだが、半年も前からチケットを予約する段になると、半年後の当日はたして行けるのかどうかを考えるとほとんど絶望的に近い。その意味では今回はまことに幸運であった。

 どこのオペラも経費の関係で装置自体は簡略化の傾向にあり、やむを得ないのだろうが今回は少なくとも、へんてこな現代風演出だけはされていなかったのが何よりも良い。オペラはたいていの場合、場所と時代が設定されているのだから、それを無視されるのだけは私は後免こうむりたい。

 細かく言い出すときりがないが、一つだけいえば第2幕第5場の「ルチア狂乱の場」のルチア役は全く期待を裏切らなかった。ここをみただけでも充分その価値はあったと思う。ただ、死んでしまったはずのルチアの亡霊とおぼしき女性が胸を切って自殺するエドガルドのそばにいる、という演出は理解はできるが多少の違和感はぬぐえない。(東京文化会館)

ランメルムーアのルチア(2) [オペラ]

 どうやら今日はある会議を1日間違えてすっぽかしてしまったようだ。催促の電話かがかかってきて平謝りで勘弁してもらった。が家の中はいたって平穏で・・・

 「ルチア」のスコアをにらみながら全曲を何回かごく大まかではあるものの、通してピアノで弾いてみた。私はイタリア語はわからないから妻にレチタチーヴォのところを日本語で読んでもらいながらのいわば二人オペラである。アリアの部分は内容はだいたいわかっているからピアノのソロのようなつもりで弾いている。うっかりいい加減に先読みをしながら調子よくやっていると思いもかけない転調、非和声音、和声進行の妙が到るところにあるので気が抜けない。

 さすがに1幕が終わるとくたびれてしまうから、お茶でも飲み、一休みしてまた先を続ける、という作業になる。これをざっと三回ほどやり、最後には楽器を離れてアンサンブル全体を見通す。このくらいやっておくと本番の面白さも大事なところはその醍醐味を見逃さないですむであろう。

 とかく現代人は馬鹿にしがちなのだが、ピアニストやヴァイオリニストがこれらオペラの一番の聞き所のアリアをテーマにして変奏曲を作って自分の腕前を見せる、ということをやりたくなる気分になるのはよくわかる。しかしこれは若干の例外を除いて大体がろくな作品にはならず、テーマとなったオペラもたいがいのものは忘れ去られ、「ルチア」「夢遊病の女」などこの時期の傑作中の傑作だけが今も演奏され続けられている。やはり古典となって残るものはメロディの美しさ以外に、非凡な構成力で曲全体が支えられていることがよくわかる。

ランメルムーアのルチア(1) [オペラ]

 大震災の影響でフィレンツェのオペラが公演中止となった。これから始まるニューヨーク・メトロポリタンオペラの公演も危ぶまれていたが、これはどうやら実現しそうでチケットを入手していまから楽しみにしている。

 オペラは何でもそうだが、あらかじめある程度の予備知識を持ってからみないと楽しみは半減する。オペラをみるときはいつもフルスコアを読んでから、というのがパターンだが今回は「ルチア」のフルスコアが手に入らなかったのでヴォーカルスコアで我慢することにした。まあドニゼッティだからピアノ譜であってもオーケストレーションはおおよその見当はつく。いつも思うのだが、スコアから見る限り、ドニゼッティやベルリーニの歌劇の書法はスカスカでこんなの面白いはずがないじゃないか、と思ってしまうのだが、実際に舞台をみるとやはり文句なしに魅せられてしまう。

 これはやはり歌い手の技量によって決まるイタ・オペの特色なのだが筋書きも単純、オーケストレーションも単純、美しいメロディがあちこちにある、といういわばミーハー向けのエンターテイメントなのである。これをシューマンはさんざんこき下ろしたが、ショパンは絶賛し、自分の音楽の最終目標とさえ考えた。

 このオペラの見所はたぶん「ルチア狂乱の場」であろう。いくつか聞き覚えのあるアリアはあるが全体をみるのははじめてである。虚心坦懐に接することにしよう。
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