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Stuttgart のCIWL [古い旅のアルバム]

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この時のことはよく覚えている。Stuttgartでコンサートのあと、ミュンヘンに帰るときのStuttgart Hbfに停車中のD-Zugである。当時D−Zugにもたまにこういう風景も見られたが、まさか自分の乗る列車にあたり合わせると思わなかった。CIWL寝台車自体にとくに解説を加えることもないと思うが、わずかに写っている左の次位の客車が普通のLiegewagen でしかも、ドアの窓に手書きの乱雑な字体で書かれた「 Liegewagen」との張り紙がみられるのが面白い。私はミュンヘンまでしか行かないのだから、ごく普通の2等乗客だったに過ぎない。

ちょうど夕日に照らされて美しく見えたのでカメラを向ける気になったものと思われる。この客車のサボにはStuttgart-München-Salzburg-Wienの文字がかなり消えかかった文字だが辛うじて読みとれる。このD-Zugの基本編成はミュンヘン行だからおそらくこのCIWLと隣のLiegewagenはミュンヘンで他の列車に併結されてウィーンまで一晩かかっていくものと思われる。のんびりした時代ではあった。

メルクリンの模型列車でもUIC-Xのグリーンの客車やら戦前型の旧型の客車に混じってこういうのを一両加えてD−Zugを編成してみる、というのも一興かもしれない。残念ながらCIWLの客車がメルクリンからは発売されていないけれど。。。

追記:この客車は1949年に作られたものだそうです。したがって私が目にした年が1962年としても13年しか経過していないわけで、それにしてはずいぶん古く見えます。

Klais駅 [古い旅のアルバム]

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ミュンヘンからインスブルックへ抜ける鉄道は風光明媚な路線として知られる。Garmisch-Partenkirchen, Mittenwaldも過ぎて、オーストリアの国境近くにKlaisというちいさな駅がある。ここで下車して10分くらい車で行ったところにEllmauと言う大きなお城があって、コンサートを依頼されて何回か訪れたことがある。当時のEilzugという料金不要の列車(日本流にいえば快速列車?)も停車する。

なにしろ当時のドイツは少し都会を離れると、メルクリン流にいうなら「EPOCH 2」戦前型の列車はざらに見られたし、これもその一つであるが、バイエルンの民族衣装を着た人やら、大きなトランクをかかえた乗降客もいる。このあたりは現在であっても鉄道車両こそモダンになってもこういう風景はそれほど変わっていないと思われる。一等車もこの頃の客車は白帯線であることがわかる。機関車は判然としないが、おそらく勾配路線であるからしてE44あたりではなかろうか。古風なパンタからもうかがえる。さすがにもうロッド付きの電気機関車は見かけなかった。

VT11.5 [古い旅のアルバム]

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あまりよく撮れていないけれど、これも今となっては残す価値もあるかも知れない一枚。TEEのいわばドイツのフラッグシップとでもいうべき、オリジナルの形と塗装のVT11.5。1962年の秋。Hamburg-Altona駅で自分の乗る予定のD-Zugを待っているときに、偶然この列車が到着したのを見て慌ててカメラに納めたもの。このディーゼル動車もだが、ご注目いただきたいのは当時のHamburg-Altona駅。電化されていないので、架線類が全くなくてずいぶんスッキリしていることや、駅舎もまだよく整備されていないけれど、その割には当時としてはめずらしいかさ上げされたプラットホーム、など当時のDBの状況をうかがい知ることが出来る。

この列車の中央の客車に「HELVETIA」の大きな文字が書かれているので、ハンブルクーチューリッヒ間を結んでいた比較的初期のTEEであることがわかる。この列車によって電化されていない路線を含む国際ネットワークが可能になった。ドイツを主要都市を中心にパリ、チューリヒ、ミラノなど国際列車の雄として一時代を画した。
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追記:予想外に多数のアクセスを頂いたのでアンコールを一枚追加します。同じホームからほぼ逆方向を撮影したものです。どちらの写真も不思議なのは到着にせよ、出発にせよ、意図したわけでもないのに人物が全く写っていないこと。もしかして回送列車?

パリのメトロ・1960 [古い旅のアルバム]

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今でこそ東京は地下鉄の世界最大のネットを誇っている都市の一つだが、1960年は何といってもメトロと言えばパリ、であった。ただ、写真をとるにはどこか、地上部分に出ているところを探さなくてはならない。今のデジカメとちがって露出、シャッタースピード、フィルムの感度など制約が多かったから、地下駅では適当な撮影場所を見つけるのに苦労した。

ご覧のように1等車と2等車は歴然と別れているが、違うのは外部塗装だけで内部は全く同じ設備。もういまでは、世界のどこでも1等車のある地下鉄は存在しないであろう。木製のベンチなのによくまあ一等料金をとるなあ、とあきれもした。4つドア車というのは、私は国鉄のモハ63あたりが世界始めてかと思っていたが、パリの地下鉄もいい勝負である。もしかしたらこちらが先輩かも知れない。椅子は一等も二等も木製のベンチであり、当時の東京の丸の内線あたりの柔らかいクッション付きのシートとは雲泥の差で、相当な時代物だと感じた記憶がある。当時はベルリンの地下鉄とてそう差があったわけではない。

昔の銀座線もそうであったが、全鋼製車体のため、騒音はひどい。いわば「Donnner Büchse」(雷の箱)。どういう状態かといえば車内ではよほど大声でしゃべらないと相手に聞こえない、と言うくらいのレベル。東京の地下鉄に乗り慣れた身としては、ベンチといい、騒音といい、サスペンションといい、とうてい「快適」とはいえない代物であった。パリでは地下鉄が縦横に走っていて実に便利で快適な乗り物、と聞かされていたが、聞くと実体験とはずいぶん差があると思った。

クリスティーネ [古い旅のアルバム]

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ブログの古い写真集の中心をなしている「鉄」はこのあたりで少し一服。

1960年前後の日本と言えば「奇蹟の成長」が始まったばかりで、「メガネをかけてカメラをぶら下げている」のが典型的日本人、と揶揄された時代だった。私が間借りをしていたドイツの家庭はTVもなく、車もなく、カメラもなかった。まあ当時ドイツのごく平均的家庭だったといえる。そのため、何かあると私のキャノンは重宝され、私は求めに応じて何でも写し、それをプリントして手渡していた。この愛らしいクリスティーネ、多分現在では60才くらいにはなっているはずである。この家族のただ一人の初孫、小学校に入学したときの記念の一枚。精一杯おめかしをして、彼女のお父さんの愛車の前で写真におさまった。赤いVWと緑のドレスのコントラストも実に鮮やかに撮れて、大変喜ばれたものだが、いまではだいぶん色があせている。

この孫娘は私になついてくれ、よくしゃべるのだが、子供は私が外国人でドイツ語は大変、という意識などない。バイエルンの方言、しかも早口でおかまいなしにしゃべるので、半分も理解できない。それでもなぜか、彼女とはウマがあったのである。私はここではほとんど家族同然に扱われていたので冠婚葬祭、すべて一通りの儀式にも付き合った。おじいちゃんが亡くなったときなどは、私は家族の一員として、4人しか担げない棺を担ぐ一人の役を担ったほどであった。はからずも「葬送行進曲のテンポ」を身をもって学んだわけである。

下の写真は愛犬のスーシ、クリスティーネと裏庭でとったものらしく、当時ののどかな南ドイツの家庭生活が伝わってくる。このシャッターを押したのは誰だったろうか。クリスティーネとはその後、彼女が成人して結婚後まもない頃、そのご主人と一度顔を合わせている。家の前の道路、まだ舗装もされていないでこぼこ道であることにもご注目。私はよく「この悪路を車で走るには100キロ以上か、30キロ以下でないとね」と冗談を言っていた。

ル・ミストラル(2) [古い旅のアルバム]

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パリの写真はおしまいにするつもりでいたが、akiraさんから、当時のル・ミストラルはCIWLではなかったか、という指摘があったので気になって、もう1枚の写真をとりだしてみた。これは駅の出発時刻案内だが、ミストラルの最後尾が写っている。これでみるかぎり、うしろに2,3両は普通のステンレス製の1等車で、それもだいぶんくたびれている。その先にCIWLの客車も連結されていたのかも知れないけれど、今となっては確認が出来ない。

それよりも、普通のExpressの「シュド(南、と言うほどの意味だが」)スペイン国境の町であるイルン行のステンレス車の方がミストラルより輝いて見えた。下の写真、CC7115の機関車がこれを牽引することになるので、ついでに掲載してみた。当時のパリーリヨン駅頭の雰囲気も伝わってくると思う。

ちょっと気になるのは、手前の一等車の窓上の赤帯で(拡大してみてください)通常一等車の帯はフランスでもドイツ同様黄色であったのだが、のちにル・ミストラルはこの暗赤色の帯のうえに TRANS EUROP EXPRESSの文字が書かれることになる。それと何か関係があるのかどうかは分からない。
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ル・ミストラル [古い旅のアルバム]

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フランスの1960年代の優等列車代表は何といってもSNCFの「ル・ミストラル」。この画像は恐らく1961年、場所はパリーリヨン駅で撮影したもの。現在はTGVが着発する遠距離専用ホームとなっている。列車番号は当然「1」。隣の奥に停車しているのはTEE「チザルパン」、のちの「ゴッタルト」。列車番号は「9」。いずれも一桁の優等列車である。「ル・ミストラル」は1961年当時パリーリヨンーアヴィニョンーニースを結んでいた。電化されていない部分も多く、地中海沿岸はまだ蒸気牽引であった(蒸気機関車は1963年ニース駅で撮影)。乗車したとき空調があったかどうかは記憶に定かでない。

何といってもこの時代、主要路線でさえどの国も電化されている区間はまだ限られていて、一等車のみの国際特急列車TEEはたいていディーゼル動車であったが、「チザルパン」は例外といっていい電車方式。正確に言えば中央に機関車があるプッシュ・プル方式の高速列車として当時としては画期的なものであったのだろう。パリーディジョンーローザンヌーミラノの3カ国を結んでいた。まだZパンタのない時代、菱形パンタグラフを狭い屋根に、相当無理して4個もつけている雄姿はいまもメルクリンの模型でしのぶことが出来る。どうせ、永久連結なのだから無理しないで隣の客車にパンタを分散したらどうなの、と言いたくなる発想は電車王国日本人だからか。

この二つの列車「ル・ミストラル」がパリ・リヨン駅をそれぞれ13時10分発、「チザルパン」が13時15分と5分間隔で発車していた。
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戦前型電車(DB) [古い旅のアルバム]

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この写真はもうだいぶん褪色している。おそらく1960年頃の写真であろう。Königsseeの駅頭で撮影したもの。車体中央にMünchen ET90-03の表記があるが、戦前型の電車で第2次大戦を生き抜いた古豪である。この電車は南ドイツもオーストリアの国境に近い山間部Königssee-Berchtesgaden間を往復していた。そもそもこんなローカル路線、もう今では廃止の憂き目にあっているのではなかろうか。当時ですら、単両、がら空きで走っていたが、それでもワンマン運転、という概念はDBでもなかったとみえる。

当時、ハンブルクやハノーファーあたりでさえ、電化していなかった時代、旧型とはいえ、電車が走っていたのはすごい。というより、DBでは電機と客車の増備は進んでいたものの、新しい電車を開発する動きはあまり見られず、その点は日本の方がはるかに先をいっていた。動力分散、高速電車、という思想はなかった。南ドイツは山間を走る勾配の多い鉄道がたくさんある関係で、比較的早く電化されたのであろう。

私がメルクリンやROCOでこの種の戦前型がときおり発売されると目の色を変えるのは、どうやらこののどかな田園風景あたりが原点らしい。しかし、さすがに1960年当時にあってもドイツのどこでも見られた風景ではなかったようである。(これも拡大してご覧下さい)

初対面のRheinpfeil [古い旅のアルバム]

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(写真はクリックすると拡大・鮮明にご覧になれます)
私の古い写真の中でもとっておきの一つ。1962年の夏だと思うが記憶はたしかでないので1年くらいの誤差はあり得る。場所はミュンヘンHbf22番線。オリジナルのブルー・ベージュ塗装のE10を先頭とする6両編成。塗装が輝くばかりに美しく、汚れていないのを見ても完成間もないころのものに違いない。この写真で見る限り、Rheingoldだとばかり思い込んでいたが、1962年当時Rheingoldはミュンヘンには来ていなかったはずではないか。そこで、ドームカーにあるサボ部分を拡大して、よくよくみてみると、ピントはあっていないながらもなんとかRheinpfeilと読める。行き先はミュンヘンードルトムント行き。3号車。そこまでは辛うじて読めるが途中駅は判読不能。

今年のメルクリンカタログのRheinpfeilは1967当時のもの、とあるから赤とブルーの混成だが、上記の列車は写真で見る限り機関車、客車とも完全に統一が取れていて美しい。のちに、TEEに移行するために徐々に塗り替えられていったのではないかと思う。この時代に撮ったスライド用フィルムはかなり褪色しているものが多いが、これはなぜかめずらしく原色に近い色調を保っている。その意味でもこうして残しておく意味はあろうかと思う。

ハルツ狭軌鉄道(1) [古い旅のアルバム]

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(Drei Annen Hohne駅で給水中のE型タンク機関車)
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正しくはSelketal Bahnであるが、この鉄道網は一番南のNordhausenから北上し途中駅、Eisfeldermühleで分岐してWernigerodeへゆくのと、東へGernrodeへゆく、ほぼY字型の路線が基本となっている。いくつもの支線があるが、一番有名なのは1120メーターのBrocken山は魔女が箒にまたがって集うという伝説のある、魔女の一大拠点として有名。出発駅、Nordhausen-nordが海抜184メーターであるから、ほぼ、1000メーターの高低差を蒸気機関車で運行することになる。本線との分岐点になるDrei Annen Hohneからは、さすがに蒸機ではきついらしく、ディーゼル機が主に使われるが、それでもときどきは蒸機も本務機として使われるようである。

写真を撮るには多くの列車が往き来するDrei Annen Hohneがおすすめ。天候が良かったこともあって、私と妻はここで半日陣取り、蒸気列車を眺めて過ごしてので、写真はもう山ほどあるが、そのうちのいくつかをお目にかけたい。一番多いのがE型タンク機関車、1−C−1のタンク機関車も1両在籍している。あとは先述のディーゼル機が若干ある程度。Brockenにも登ろうと思ったが、あいにくディーゼル牽引の列車しかないのでこれでは面白くない、とやめることにしたが、今にして思えば、それでもいっておいた方がよかったと後悔している。

下の写真1−C−1のタンク機関車、これこそが、私のLGBの原点となったもので、これを見てLGBにハマったわけである。実はこれと同じグリーン塗装のLGBが欲しかったがあいにく黒塗りのものしか入手できなかった。E型の方はまだこの1992年当時LGBのカタログにはなかったがここ数年見かけるようになった。
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(Elend駅で対抗列車を待つC型タンク機関車21 写真をクリックしていただくとより鮮明で大きな画像がご覧頂けます)
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