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阪急900型 [模型鉄道]

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先のデイ100の成功に気を良くして勢いに乗って制作したのが、当時阪急神戸線の最新鋭、900型4両編成である。でもあとで製作したはずのこの車両のほうが保存状態はずっと悪く、塗装は剥げ落ち、少し触るとバラバラに崩壊してしまいそう。パンタ回りの屋根はセメダインの上に細かい砂利をふりかけたもので、当時は割に屋根の質感がうまく表現できたと思ったが、いまやみる影もない。ちょうど2両完成させたところで、私は大学生となり、東京の狭い下宿部屋に住むことになって、模型どころではなくなった。それにしても、高校三年生、受験勉強で忙しいはずなのにこんなものにうつつを抜かしていたらしい事は分かる。そういえば、当時東京の地下鉄丸ノ内線が開通したばかり、とか都電の5000型が新しく登場した、とか新車に気をとられ、入試の合間を縫って電車に乗っていた事が懐かしく思い出される。ピアノを練習しようにも練習場所がなく、暇を持て余していたからでもある。こんなんでよく入試に受かったなあ!

いっぽう、900型の残りの半完成の2両を友人に託し、故郷を留守にしている間に完成させてもらい、4両がなんとか揃うことになった。これ以後、しばらく私の鉄道模型熱はさまざまの事情でドイツでメルクリンに出会うまで一服する事になる。その間、世の中はHOゲージとなり、さらにNゲージ全盛時代を迎える、など慌ただしく変化を遂げる。実物の日本国有鉄道は客車列車主流から、「こだま」の東京ー大阪6時間半運転など高速列車の電車化の幕開けとなる。当時のヨーロッパの高速電車もイタリアの「セッテベーロ」くらいではなかったか。60年以上も昔のお話。

恒例の四日市 [模型鉄道]

正確には覚えていないが毎年12月28・29の泊村コンサート、20回はとうに超えているはずである。多少の小雪がちらついたのもこの時期の四日市らしい風物詩。

とまりむらは奈良希愛さんに同行してもらってシューマンの作品のコンサート。連弾とメロドラマ、バラードを奈良さんのドイツ語の語りとピアノの伴奏がつく、という珍しい趣向。でもこの40人くらいの集まりはこういうものも受け入れられる。ドイツ語のバラードは一般には理解がむつかしいと思われたので、私が詩の内容を要約してあらかじめ紹介した。が、聴衆のうち何人か明らかにドイツ語の詩を理解し、一緒にこの珍しい作品を楽しんでいただけたようである。この会も、すでに教養の高い方々のハイソサエティになっていることを実感した次第。ついでにいえば、私の中学校の国語の先生も恒例毎回出席してくださっている。何と言っても国語の先生であるから話すにも、文章を書くにもいまだにプレッシャーとなる。

プログラムに先立ち、何度もここで一緒にクラリネットを演奏してくださった故浜中浩一さんをしのんで、マックス・レーガー編曲の連弾用、バッハの通称「G線上のアリア」を献奏。これまた珍しい編曲、といえよう。

翌日のYRFCが盛況であったのは望外のよろこびであった。Kさんを中心に、Y,S,S,T,Nさん夫妻、私たち夫婦、計9名。富士山の写真、鉄道の話、南相木の話、ウエールズやカナダの話、昼食をはさんできりがない。もちろんKさんのNゲージ、BEMOも楽しむ。Nさん、多少認知症気味、と聞かされていたが、活発な奥さんのサポートもあって濃密な時間を過ごすことができ、元気であれば再会を約して、20時に東京帰宅。

このYRFCの会合、最初は近くの蕎麦屋で一緒に飯を食う、くらいの簡単な集まりだったが、だんだん高度化し、今日は四日市のさる名士の旧邸を改築したレストランでの豪華昼食会。戦後まだ金も物もない時代の中学生の頃「鉄」仲間として知り合って以来、同じスタートラインから人生を歩みはじめ、60年以上も毎年一回は必ず集まる、というのは、この年齢となった私にとって唯一といっていい貴重な友人サークルとなっている。ただ、考えてみるに、何かやるにしても 共通の話題で盛り上がるには、みなそれ相応の人生経験があり、世界をあちこち旅行し、学歴も関係なく、各界でそれなりの成功を収めて、引退してもそこそこの経済力もある、という、共通項があるために成り立っているかなり幸運なケースかもしれない。

当日集まった全員で10月に85歳で逝去されたジュニア模型店主、元国鉄マン、そしてYRFCの最長老であった伊藤礼太郎さんの御宅を訪問、仏前にお参りもして、奥さんともこもごも思い出話を交わしたこともここに記録しておく。

第14回国際模型鉄道コンヴェンション [模型鉄道]

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開場の10時ちょっとすぎにビッグサイトの東4についたら、入場を待つ人で長蛇の列、模型鉄道への人気の高さが十分伺えた。会場は去年よりも入場者は多いと思われる。

私は何もしないで、いいとこ取りのだけのHbfの会員だが、今日もたっぷり楽しませてもらい、運転の傍ら、会員との有益な話も伺うことができて、楽しい一日であった。会場全部を見たわけではないが、今年は去年よりも一段と充実し、Hbfのテリトリーも拡大、設営のみなさんのご苦労を、ただただ感謝あるのみである。

どなたかとも話したことだが、自分の車両を持参して走らせる、というより、いかに面白いものが見られるか、が私にとってここに来る主眼となる。そしてその期待は十分みたされた、というより、時間が足りなくてみつくせなかった、と言った方がいい。今年のテーマはOktober Festだそうだが、これも面白かったけれど、長崎さんの力作になるケルンの大鉄橋(?)は見事で、昨年は運転席と外側を往復するのに机のしたを荷物をかき分けて苦労したものだが、この鉄橋のおかげで、観客側と運転側の往き来がずいぶん楽になった。

ハビンスの十数両の編成を小型機の24型蒸機が頑張って牽引する、というユーモラスな発想も秀逸だったが、やはり鉄橋の上を同時に5ー6編成の列車が同時に通過するのは見ものである。ハビンスの貨物列車、ICE3、タルゴ列車、ノースランダーなど、いつまで見ても飽きない。残念ながら今年は打ち上げにも出られず、明日早朝にソウルに立つのでその準備もあって、途中で失礼した。いろいろお世話いただいた、よしゆきさんにも、お礼も言わず、失礼をしました。みなさん、本当にありがとうございました。

しばらく日本を留守にしますのでブログもしばらくお休みします。韓国のピアノコンクールの模様は、またまとめてご報告いたしますので、とりあえず。。。。

Super Vollmer [模型鉄道]

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やはり単純オーバルだと飽きる。枝線を出したりしているうちに、せめて駅舎くらいは欲しくなって、久方ぶりにVollmerの田舎駅舎のキットを買った。VollmerはFallerと並んで模型用建築物の大手メーカーで種類も多い。私はもうこんな細かいものを組むのは目が見えないから自分でやってもろくな仕上がりにならない、と思い、息子のところに組み立てを「発注」した。

まあとりあえず組むだけなら、2、3時間もあれば出来るはず、と思ったが、いっこうに出来てこない。約一ヶ月もたった後、ようやく宅急便で届いた。みればまあこれがフォルマーか、と思うような立派なできばえで、びっくりした。写真ではよくみて頂けないが、ただ組み立てただけではない。細部の再塗装が実に凝ったものに仕上がっている。例えば屋根瓦が、一枚一枚、微妙にちがった色に塗りわけられ、同じようにプラットホームまわりのタイル、とおぼしきものもやはり一枚一枚ちがった色に塗りわけられていてフォルマーここまでやると、まるで見違えるようなものになる。だが、ある程度の大きさのレイアウトを作るのに建築物をこの調子でひとつひとつ徹底的に凝っていたら、100年かかってもレイアウトは仕上がらないのではないか。

私もふくめておおかたの模型鉄道をやる人は、興味の中心はなんといっても車両であって、建物とか景色などは、にぎわいとしてあればいい、という程度にしか思っていないのではないか。これはもしかすると、歌い手が、歌だけが最大の問題の中心であって、ピアノ伴奏やオケ伴などはまあ、鳴っていればいい、という程度にしか思っていないのに似ている。音楽の中の伴奏というものの重要性をふだん力説している身でありながら、趣味の世界ではいっこうに実行していないということになる。うーん。

BEMO [模型鉄道]

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 BEMOは滅多に運転しないが、たまに走らせても意外に集電はちゃんとしている。この画像のFOのG4/4もレールの上に載せるのははじめてかも知れない。何といってもアナログなので方式が単純、私には扱いやすい。メルクリンはハイテク化しすぎたので、少しトラブルがあるともう私の手に負えなくなるという問題がある。

 昨夜は推進運転中、スピードを出しすぎて客車が脱線し、1メートル下のタイルの床上にもろに落下し、全部の部品がバラバラになったので、もうこれはダメだと観念した。幸い機関車はレール上にはとどまった。ところが、客車の部品を全部集め、もう一度組み直してみるとどこもこわれた箇所はなく、完全に元通りの客車に復元した。これは古いWest-Germany時代の製品である。大したものだなあ、と改めて感じ入った。

鉄道ファンクラブ [模型鉄道]

 四日市鉄道ファンクラブ(以下YRFCという)の友人のN 君が昨年暮れ、我が家から近いところに引っ越してきた。さっそく彼の新居をたずね、この正月にも拙宅へも来てもらい、旧交を温めた。そういえばもう一人、YRFCのメンバーが小田急沿線に住んでいる。先日、四日市で10人もメンバーが集まったのだから、東京でもYRFC東京支部を作ろう、という話にまでなった。

 もっとも彼らの中でいまでも模型鉄道を続けているのは半分にも満たない。仕事の分野では別々の職業で活躍した人たちだが、鉄道に関してはみな人一倍の関心は持っている。この趣味のグループもこの年になったからこそ、積極的に交流をつづけたほうがいい、と私は思っている。模型鉄道やビデオクラブを積極的にやっているくらいだから、時間的にも経済的にもそこそこの余裕のある人たちばかりである。私だけがまだ仕事のスケジュールに追われている身だが、もうそれをいいわけにしないでもっと趣味の時間を作りたい。

 それやこれやで暮れから正月にかけて、拙宅のメルクリンの固定レイアウトを何人かの人に楽しんでもらった。日本の模型鉄道をやっている人たちはメルクリンのなんたるか、をほとんど理解をしない人も多いが、それでも私は彼らにメルクリンの講釈などはあまりしないで、模型鉄道の一つのあり方を認識してもらう程度にとどめている。趣味の世界は、自分の趣向、主義の押しつけ合いがいちばんよくないのである。
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椙山満さんの形見の車両が届いた [模型鉄道]

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(初期型のユニオン・パシフィック)
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(近鉄大阪線1300型)
これまでブログでは本名を出さずに来たが、昨年80才で鬼籍に入られ、かれこれ1年近くがたとうとしているのでもう本名でも差し支えあるまい、と判断した。

椙山満さんは四日市の鉄道模型ファンクラブの前会長で四日市の模型ファンを多く育てた大の鉄道マニアとして、シトロエンの大ファンとして、また、郷土歴史家として、開業医を本業としながらもさまざまな顔をもった人であり、私の尊敬する大先輩である。どの分野でもそれにかけた情熱は並のものではない。

昨年亡くなられてまもなく、ご子息や奥様や、ファンクラブの何人かが集まって、膨大な遺品である模型鉄道車両をどうする、という話になったらしい。個人的には博物館にして残したいくらいなのだが、それもいろいろの事情で難しい。そこで、親しかった人たちに遺品の車両の形見分けが行われた。そのうちの11両、近鉄大阪線の1300が2両,ユニオン・パシフィックの初期型蒸気列車セット、それに阪神電車の旧型の車両6両(これも若い人には全くなじみのないと思われる800型)などが今日、小包で我が家に届いた、というわけである。

私は特に車種を希望したわけではないが、クラブの人たちが私の好みも考えて選んでくれたのだとおもう。これらの車両たちを前にして私は誠に感無量である。どれもいまの若いファンにはなじみの薄いものばかりだが、なかでも近鉄大阪線の1300などまことにしぶい。当時でもよほどの凝り性でないと手を出さなかったものだ。ユニオン・パシフィックの巨大なカウキャッチャー、ヘッドランプにバッファローの角があしらってある2-Bの機関車は映画「大平原」や「線路は続くよ、どこまでも」の歌と共に、西部開拓時代を象徴する、椙山さんが何より愛した風景である。以上はいずれもHOゲージだが、これ以外にもOゲージ時代のものも膨大な数にのぼる。



マニアはけっこう身近にいる [模型鉄道]

 11日のコンサートの20分くらい前。私は舞台裏の部屋で出番を待っていた。この時間ほど手持ちぶさたな時はないが、演奏家は緊張の極致にあるから、この時間帯はどの演奏家であれ、面会謝絶がふつうである。

 ところが何の前触れもなくドアをそっと開けて遠慮がちに、部屋に入ってきた人がいた。ファゴットのYさんである。見れば初期「鉄道ファン」の雑誌を小脇に抱えていて、やおら、「この記事は先生のインタビュー記事ですよね」とはじまった。見ればずいぶん古い雑誌で、おそらく彼が物心つくはるか以前発売のはずである。

 しかも大切に保存されているらしくてとても数十年前のものとは見えない。これがきっかけで、彼のマニアックぶりに話が及んだ。話を聞けば聞くほど、もうこれは、私のとても及ぶところでない、と感じた。携帯の写真で見せてもらったのは旧国鉄9600ライブの作りかけの写真で、多少キットの部品を使ったところはあるがほぼ全部手製だという。真鍮の鋳型、真鍮板、真鍮線などライブだから当然全部金属製。完成の暁にはぜひみてみたい。

 これだけ長い間洗足学園に関係していてYさんの存在を知らなかったのは不覚の至り、というほかないが、まだまだ鉄道クラブにさえ属していないかくれマニアは多いようである。彼は洗足学園の鉄道クラブとも一線を画している。孤高の存在,とでもいうべきか。お互いオタクであるから、理解はするのだが、自分の目指す方向がみなちがうため、オタク度のレベルが高くなるほど案外鉄道マニアは孤独であることも多い。

 「マエストロ、時間ですよ」とステージマネージャーに促されるまでこの話はえんえん続いた。かくてこの鉄道談義ですっかり緊張がほどけたまま、いきなりステージに立つことになったが、このやりかたは自分で仕組んだわけではないが肩の力が抜けて案外本番はうまくいくもののようである。

もう一つのとまりむら [模型鉄道]

 これも恒例の四日市の行事なのだが、昨晩のコンサートとはメンバーは全部入れ替わり、「四日市鉄道ファンクラブ」である。私がコンサートでここを訪れるとき、Kさんが必ずみんなに声をかけてくれ、何人かが集まる。私はそのためはじめから1日予定を長く組む。鉄道談義に花が咲くのが通例で今年は10人以上も集まった。とりあえず旧ファンクラブの会長でもあった椙山さんの霊前にみんなで挨拶をすませ、いつもの日永の料亭で簡単な昼食をとる。でも私たちはメシなどどうでもいいのだ。先がある。

 それから先は・・・・。あとから数えたらこの日は全部で旧会員の家々を実に6軒もハシゴしたことになる。その半分以上の人が大なり小なりレイアウトを持ち、いまもなお鉄道模型を楽しんでいる。定年になってもこういう趣味を持てる以上の幸せがあろうか。中でもびっくりしたのは、初めての訪問であるNさんの家のレイアウトである。彼は「うちでひっそり楽しんでいます」と以前から控えめに語っていたのだが、こんな大がかりなものとは知らなかった。最新の天賞堂製のサウンドつきのC57もあり、いまの日本の最新レベルのサウンドも味わうことが出来た。ヨーロッパメーカーの最新式のものに全くひけをとらない。いや、メルクリン以上かも知れない。ただし、これはまだ昨年くらいから出たものらしく、限定生産でそう誰でも手にはいる、というものではなさそうだ。値段もメルクリンと比べても一ケタ違う。

 おもしろいのはROCOのスイスのクロコディルに牽引される、DBの戦前型客車の一編成があり、さらによくみるとシーナリーに使われている建物のかなりの部分フォルマーとかファラーのものも結構使われていて、いろいろな楽しみ方があるなあ、と感じさせられたことであった。(絵はあとで入れます)
当然私が東京に帰り着いたのは深夜に近かった。
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S氏の訃報(タルゴの続報) [模型鉄道]

 前のブログで「タルゴ事始め」のような記事を書いたが、これは何か虫が知らせたのだろうか。タルゴを日本で初めて(私の知る限り)模型化した当のS氏の訃報が舞い込んだ。1年前に80才のお祝いを四日市レールファンクラブ(YRFC)で催したばかりで、それからまもなく体調不良で入退院を繰り返しておられたと聞いていた。私の鉄道熱をこよなく応援してくれ、啓発されることの多かった大先輩である。

 S氏は終戦後まもなく四日市の自宅の近所に住む鉄道好きのガキどもを集めて(私はやっと中学生になったばかり)みずからガリ版刷りの会報を毎月発行し、いろいろ貴重な記録を残しておられる。昭和20年代の日本はまだ戦火から立ち直れないころで、模型をつくる、といっても、車輪と粗悪なモーターと真ちゅう板、せいぜいよくてED17のキットくらいしか市販されていなかった時代、使えそうなあらゆる材料をかき集めて製作に没頭した。

 当時、鉄道の先進国は何といってもアメリカである。S氏はUnion PacificやSanta Feなどの最新の情報を入手してほとんど全部を手作りで各時代の列車を製作しておられた。タルゴ列車もその延長線上にある。身近な国鉄や近鉄以外に海外の鉄道にも目を開くきっかけとなった私がどんなに啓発されたかはご想像頂けよう。この頃の私の鉄道への情熱は、今だからいえるが、ほとんどピアノのことなど眼中にはなかったのだ。

 S氏の思い出はいくら語っても尽きない。まだまだ80才を過ぎたばかり。もっと元気で長生きして頂きたかった.かえすがえすも悔しい。18才以降、ずっと四日市を離れてしまっていた私はS氏の全体像は分からないが、誰か略伝を書いてもらえたら、と思う。執筆された鉄道に関する文章、もしくは論文も膨大な数になり、後世に残しておく価値があると思う。
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