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改装された芸大第6ホール [音楽大学]

芸大の第6ホールが大改装されて、これまで主としてリハーサル用、もしくは期末試験用のホールとして使われていたのが、本格的なコンサートホールとして再出発した。そのお披露目の記念式典の招待状が届いたので、どんな風になったのか覗いてみた。おそらくは何年もかけて議論の末、このようになったのだと思う。ステージが平土間で、客席部分がゆるい階段状になっている。こんなコンサートホールはあまり例がないのではないかと思うが、長年芸大の第6ホールに馴染んできた私は特に違和感を感じない。

このホールがコンサートに使えなかった最大の難点は遮音の悪さにあった。地下に打楽器の練習室があり、その音がホールにどうやっても漏れてしまう。今回の改装に当たって一番頭を痛めたのはこの点だそうで、完全遮音は不可能ではないが、莫大な費用がかかる。おりから東北地方太平洋沖地震の復興のために人件費も材料費も高騰して、予算をはるかにオーバーして先へも進めず、さりとて長年の苦労の末、せっかくついた予算を使わない訳にはいかない、という事態に追い込まれたらしい。

そこに救いの神が現れた。前にも当ブログで触れたと思うが、coco壱番カレーの宗次社長が何と10億の寄付をしてくださったのだそうである。学長、学部長の挨拶で最大限の謝辞を述べられていたがさもあろう。いくらクラシック好きの宗次社長とはいえ、半端な金額ではない。このおかげで理想通りの改装(といっても新築に近い)が可能となったのだそうだ。

内装はいかにも芸大らしく、意表を突くもので、塗装をしないままの木材、それも住宅に使われる柱状のものが、天井から無数に吊り下げられていて度肝を抜かれた。落ちて来るのではないか、と一瞬恐怖感がよぎったが、大震災以来天井崩落事故が相次いであったから、強度も見直したのだそうでたぶんよほどのことがない限り崩落の危険はないという。ここでこれからいろいろなコンサートが行われる。この木の無数の柱がその音楽を吸い込み、記憶にとどめることであろう。ぜひ一度コンサートにお越しください。

就職事情 [音楽大学]

 私のクラスにいた、MさんがG大の非常勤講師になることになりました。と挨拶に来た。任期は3年だそうである。すこし前にもやはり別の生徒から5年の任期で非常勤講師になった、という報告があった。結構なことではあるのだが、これはいってみればいま問題の派遣社員に似ている。もともと大学の非常勤講師というものは1年契約であり、1年ごとに契約を更新する。10年くらい前までは、ひとたび非常勤講師として採用されれば、特別なことがなければ、暗黙のうちに毎年契約が更新されて、定年まで勤められるのが通例だった。それが10年くらい前から様変わりしだしたのである。3年とか5年とかあらかじめ本人納得の上で決められるのが通例になってきた。常勤の教授でさえ、3年、とか5年とかの期間を限った採用もめずらしくなくなった。これは本来あるはずのないことなのだが、各科の人事の利害調整がうまく行かず、苦肉の策として考え出されたものだ。

 これはいってみれば、ある種のワークシェアリングなのである。就職難のためになるべく多くの人に機会を与え、G大講師、という肩書を一度持てば、のちのちそれなりに恩恵を被る人が増えることになるから、その方がいい、ということのようである。当時私もG大の人事に関する委員長の任に当たっていたから、スッキリとはしないものの、これも時代の流れか、と感じたことを憶えている。それでも一般の企業と違うのは、契約の期間に満たないのに、いきなり、あなたは明日からこなくてよろしい、という理不尽なことがないだけ、まだしもましで、将来の生活の設計は立てやすい。

 一方、逆のこともある。音楽家として大学の給料などに頼る必要のないひとで、大学内のいろいろな雑用に縛られるのにほとほと嫌気がさして、いきなりやめる人も多くはないがときおりある。昨今の何処かの国の首相のようだ。このケースはえてして、大きな音楽的才能の持ち主だから、大学としてやめられては困るのである。雇う方と、雇われる方の雇用のあり方は結局双方の力関係で決まる。この傾向は今後ますます強まることになろう。

追記:さらにもう一人の生徒から非常勤講師採用の知らせが届いた。私のクラスはどうしてこう就職率がいいのでしょうか。まあ全員美人だから、という理由でなければ幸いですが・・・。

二つの卒業コンサート [音楽大学]

(1)洗足学園大学院特別演奏会。13日。このコンサートとしては3回目になる。サントリーホールで演奏する、大学院卒業生にとって晴れの舞台である。ピアノは今年は2台ピアノ8手連弾でベートーヴェンの「エグモント序曲」。このたぐいの編成には曲がないのでたいてい自分で編曲をするしかないのだが、今年は編曲者不詳のものが見つかったのでこれを当てた。編曲がひどく悪い、というわけではないが、いろいろ問題が多い。そこで私はあちこち手を入れざるを得なかった。学生たちはみなとてもよく演奏したと思うが、どうやらこれは私の選曲ミスだった、と反省しきり。やはり手抜きはだめである。

(2)その翌日14日。札幌大谷大学卒業演奏会。飛行機の都合で最後の何人かだけを聞いたから全般の感想をいうのは難しい。4年間きちんとした教育を受ければ、かなりのレベルにまで到達する、という実感は持った。大学が発足してから2年しかたっておらず、大学生として入学したものは当然まだいない。もともと短大の2年間から後の編入学生しかいないから、第1回卒業生、というふうにはならず、平成19年度卒業生、という苦しいネーミングになった。

卒業式も無事終わりました。卒業生の皆さん、将来に向けてがんばろう!


札幌大谷大学第2回定期演奏会案 [音楽大学]

 先に私のメモとしてだしておいた定期演奏会のアイディアがどうも不評のようなのだ。要するにいろいろの観点からみて実現不可能、ということのようだ。しかしこれはもともと私がたたき台として出したのあってこの通りやれ、という趣旨ではないから、ほかに、現実をふまえながらももっといいアイデアがあれば、それはそれで私も賛成すると思う。
ただどちらにしても、この札幌大谷大学の姿勢をアピールするようなものでなければやる意味がない。
 定期演奏会は学生の発表会ではない。総花的なものを出すなら、多分金と労力を費やすだけで世の中にメッセージを出すにはほど遠いものになる。これは個人の演奏会に例えれば、自費でやるリサイタルであり、自分のメッセージを込めたプログラムにするだろう。大学の演奏会も同じことである。何となく練習を積んだものをかき集めてごた混ぜにやっても発表会的自己満足に終わるだけで成果は上がらないことは目にみえている。一言苦言。


驚異的な就職率 [音楽大学]

  私が芸大で仕事をしていた33年間、この大学の就職率、というのは教授会ではおろか、一般に話題にすらのぼったことはほとんどなかったように思う。多分実態はひいき目にみてひとケタ台か、シビアにみればコンマ以下かも知れない。学生たちが自分たちの将来を考えていなかったわけではなく、個々にみれば優秀な学生でも自活することを考えないわけではない。いつか芸大にソニー会長の大賀典雄さんを芸大にお呼びして講演会を持ったことがある。その際、本気か冗談か、「芸大ほど将来の仕事についてまともに考えたことがない大学もみたことない。芸大にも経済学部を置くべきだ」、と言われたそうである。それを伝え聞いた平山郁夫学長はただ一言、「悪い冗談ですね」とコメントしただけだったそうだ。さらにそれを伝え聞いた私の感想は「どっちもどっち」。

 ところで札幌大谷大学。私は最初耳を疑ったのだが、「去年度の音楽科卒業生の就職率は85パーセント」ときかされた。まさかいくらなんでも、と思ったが、実際、職種を問わなければそういう数字なのだそうだ。これは、こういう地方の学生、特に北海道は景気回復の恩恵に一番取り残された地域で、親も、学生も、大学を卒業するだけでも経済的に精一杯であり、卒業したら、ともかく何かの職業に就かなくては困るのだ。音楽家を目指すという希望も経済力なくしては成り立たない、と言うことを、誰もが切実に感じている。当然大学はそれに敏感であり、出来る限りの就職支援を行っている。その意味では先ほどの大賀さんの発言についていうなら、この大学はそれを地でいっている模範大学、ということになりはしないか。

 日本全体でみれば親に経済力があって、30でも40でも親がかりで外国で勉強を続ける、という人は少なくない。それが悪いというわけではないが(皮肉な見方をすれば、ヨーロッパの音楽大学の先生はそれで生活が成り立っているともいえる)私はやはり大学を出れば、自分で自分の生活くらいは何とかすることを考える方が健全なあり方ではないか、とも思う。振り返れば私自身も昔はそういう境遇にあった。その時代は芸大生でも一般にはそれが当たり前だと思っていた。本当にごく例外的に経済力と才能と運に恵まれた人だけが外国留学が出来た時代だったから。でもこれも時代の移り変わりなのだろう。

日本の音楽の水準がよくなることはいいことに違いない。でも世界的レベルでみても、経済力のある国からしか優れた音楽家はでない、と言う現状をどう見たらいいのだろう。(逆に経済力がありすぎる国からもやはりでない、ともいえる)


大学経営術 昔と今 [音楽大学]

私はこんなことやるために札幌に行くわけではないのだがなぁ、と思いつつも昨日は会議だけのために朝5時起きして札幌日帰りをした。私は乗り物で旅行するのは好きだからそのこと自体は苦痛ではない。

札幌大谷大学に音楽学部が創設され、私は学部長という立場なので、音楽に続いて、懸案の美術学部を立ち上げるかどうかの決断をする、という重要な会議なので、欠席というわけには行かないのだ。少子化のこの時代、新しい学部を立ち上げるのは容易ではない。しかし短大のままではこの先先細りであることは確実だし、どうするかの重大な岐路に立たされている。

学園全体の問題なので、高校から借りた金の何億だかをどう動かすか、とか借金の返済をどうするかなど、どれも億単位、もしくは何十億単位の話で、わたしにはまるきりちんぷんかんである。とにかく今の私学は、行くも地獄、戻るも地獄なので、決断は容易にはでない。坊さんは俗世間に疎いから金勘定も音楽家の我々と似たりよったりなものか、と思っていたが,議論をきいていると、いやなにどうして、なかなか侮りがたいものがある。

音楽学部と美術学部はやはり対等に必要で、どちらも地獄なら、進んだ方がいい、というのが私の基本的立場。これまでは。金勘定をする理事側と、現場で仕事をしている先生との意思疎通がうまく行っておらず、それがことあるごとにギクシャクする要因になっていた。私は着任早々、理事側と現場とをもっと風通しのいいものにしたいと考え、それを訴え続けたので、そのための会合が定期的にもたれ、お互いの相互理解が始まったのはプラスだと考えている。しかし難問は消えるどころか、それによってますますこれまで裏に隠れていた新たな難問が噴出してきた。でも先生たちも理事の考えを理解し始め、理事長や理事も現場の先生の声をナマで聴く、というのは一歩前進であろう。

この年になって大学の経営に足をつっこんでみるのも自分としてはこれも良い経験だと思っている。私は好奇心が強いから、いやなことを無理矢理やらされている、という自覚はあまりない。幸い私はあちこちの私立大学や企業に関係した経験は相当豊富だし、人脈もある程度あるから、この大事な時期に何か役に立てれば幸いと思っている。

その昔、メンデルスゾーンが音楽院を立ち上げ、シューマン、クララ、ダーフィト、モシェレス等当時のそうそうたる音楽家ではじめた音楽院も結局あまり長続きせずポシャッているのを見ると、いい音楽家を集めたから理想の音楽学校が出来るというものでもないようだ。優秀な経営者と、優秀な音楽家がそろってはじめて可能になるのかも知れない。


洗足学園と初代学部長「諸井三郎」 [音楽大学]

 洗足学園の内部の人たちも多分この事を知っている人は少ないだろう。それ以外の外部の音楽家ではもちろんほとんど知られていまい。
初代学部長で作曲/理論家である諸井三郎先生の遺稿として残された「音楽構造の研究」という3冊にわたる大著がある。諸井先生の薫陶を受けたお弟子たちがこの遺稿を発見し,出版したいと思ったが,こんな重く,難しい本を今時出版してくれるところなどない。

 ところが,洗足学園大学が先代理事長以下,幹部のひとたちがその意義を認め,全面的に財政的バックアップをして残してくれたのがこの本である。1990年に出版されて以来,わたしも所有はしていたがあまりの大著で,内容もそうすんなりと読めるようなものではないのでついそのままになっていたが,最近になって読みはじめて驚嘆した。

 諸井先生の著書については、楽曲分析等を通じて,正直,わたしはこれまでかなり批判的に見ていた。しかしこの著書を読んでその音楽的視野の広さに多くを教えられた。それは西洋音楽の発生から,現代の最先端の音楽まで、特に譜例の資料の豊富な事はおどろくほどで,中世の音楽についてはわたしはかなり断片的知識しかなかったのだが,これで私のあたまの中がかなり整理されつつある。どこへ旅行するにも重い本だが我慢して持ち歩き,電車や飛行機の中で暇があれば読んでいる。
 例えばモーツアルトのアリア一つを例にとっても全西洋音楽の歴史の中の一つの現象、という大きな視点でとらえられている。これはかなり西洋音楽の偏りのない知識をもたないと読みこなすのは難しい。でも,こういう事業を洗足学園で,損得を抜きにして遂行された事に敬意の念を禁じ得ない。洗足学園はこんな立派な仕事もしているのです。でもこの本を読みたいと思う人もどこで手にはいるのでしょうか。


新しい友人・札幌大谷大学 [音楽大学]

 新しい友人との出会いというのはスリルがある。札幌大谷大学音楽学部の開学式に立ち会った.というよりは、その式次第を学長と練り、音楽の演出は主に私が担当した。お坊さんが壇上にずらりと並び音楽大学の開学式を祝う、というのだから、私でなくとも、どんな音楽を選んだらいいか頭を抱えてしまう。そもそも仏教は音楽とともに発展してきた宗教ではないのだから、どうしても違和感がつきまとう。信時潔の作になる「みほとけは」これはまさに信時の信奉するバッハのコラールの影響の強いものだが実に風格のある音楽で、すばらしい。バッハ流のハーモニーがつく。これを中心として焼香の間のBGMには本居長世の音楽を当てた。当日使える楽器のためにオーケストレーションを大谷大学の作曲家、木村雅信氏に依頼。合唱とカペレは2階席の後方に配置した。あとはピアノで私がショパンを弾き、最後は私の編曲の8手連弾「セヴィリアの理髪師」でしめる。

 自分でいうのもなんだが、この演出はなかなかうまくいった、と自負している。まったく違和感なくコーディネートできたみたい。こんな面白い経験は2度と出来なかろう。長生きはするもんだ。仏壇の前でショパンを弾く、というのもへんだがまた悪くはない。

 それよりもこの1週間実にいろいろの人とお会いした。坊さんと(というよりは宗教家、哲学者である人が多いのだが)キリスト教やユダヤ教についての話を聞くのは面白い。親鸞の思想は多分にキリスト教の影響が多い、という話を聞いたときは目から鱗が落ちる思いをした。仏教系の学校でキリスト教の話を私は平気でするし、坊さんでしめている理事会もそんなことはまったく問題にしない、と私に明言している。そもそもそういう話が出来ないようならこの大学のお話しはお受けで出来ませんよ、と最初に私がいいだしたことに対する回答である。

 21世紀は科学万能の文明が行き詰まり、宗教と科学が手をたづさえる時代になる、といわれている。まったく同感である。こういうことになったのも何かの縁、仏教用語でいうなら他力の思想で、「わがはからいにあらず」である。こんな楽しみが待ち受けているとは思いも寄らなかった。洗足といい、大谷といい、それぞれ面白い。いったい俺は芸大で33年間もいったいなにやってたんだ?


札幌大谷大学音楽学部立ち上げの記 [音楽大学]

 この少子化の時代に新しい音楽大学を立ち上げる、というのは正気の沙汰ではないように見えるのだが、この4月から札幌にタイトルのような音楽大学が立ち上がることになった。少子化にもかかわらず、理事会側は長年検討の結果、北海道にこれまで一つも音楽大学がないので、それなりの需要は見込める、という結論に達したことと、短大そのものが先細り傾向にあるので、このままでは学校そのものが将来立ちゆかなくなるかもしれないという危機感があって、いわば背水の陣なのである。

そのため私はもう今年に入ってからもずいぶん何度も札幌を往復しているのだが、先日入学試験も済み、ともあれ、当初の予定の学生募集人員もなんとか確保することが出来て大学としての格好はつき、4月からスタートすることになった。大学を立ち上げるというのはこんなに大変なんだ、というのを私は見たことがなかった。現在そこには短大で音楽科、美術科,保育科があるのだが、短大とはまったく別物になるとはいえ、短大の音楽科の先生たちも事務員も目下文字通り不眠不休で準備に追われている。

あたらしい校舎の建設(しかも3月10日現時点でまだ完工していない)、あたらしい教授陣の確保、楽器や家具その他の備品類の選定、購入、カリキュラムや教室の点検、などなど仕事は限りなくあり、しかも期限が限られている。毎日が戦場のような状態なのだ。これまで私はいくつもの大学に関係してきたが、それらはどれも、もともとある路線の上に乗っかるだけだからまあ何と云うことはなかった。
 こういうまったくあたらしい仕事というのは経験したことのないスリリングなものだ。昨日は
後の入試判定の結果を出したあと、家具屋がやってきて、どこの教室にどういうi色や形の机やいすを入れる、ということを図面とにらめっこしながら一つ一つ決める、しかも全体の予算が決まっていてその中でやらなければならない、ということで担当の先生は死ぬ思いなのだ。何しろものすごく分量が多い上、個人レッスンの部屋などはそれぞれ先生の個別の要望があって、全部一律、というわけに行かない。
4月3日学園開設100周年記念、と大学開設、という二つの大きな行事があり、学校始まって以来の大行事。どうなる事やら。失敗は許されない。4月から学部長に就任する。

その後の経過  3月27日現在
まだ竣工検査も完了せず、ものも運び込めないでいる。いったい間に合うんでしょうかね。でもこれは日本のお家芸で、いよいよ最後の最後で徹夜してでもだいたい何とかなるものだが、今回も果たしてうまく行くかどうか。ピアノはぼつぼつ運び込まれている。
開学、入学式などの手順を学長とともに詰める。演奏する音楽に関してはだいたい手順は整っている。式次第の中では仏教の聖歌集(キリスト教でいうと賛美歌にあたるようなもので、けっこういい曲も中にはある。その中から適当な曲を選び、私は学部長訓辞のかわりにピアノを何曲か演奏する。



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