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VWの不祥事について [一般向け]

真面目にやるのが取り柄,というイメージのドイツの会社だから,これにはびっくりした。なにもトヨタと世界一など張り合わず,我が道を行く会社だと思っていただけに,失望は大きい。直接我が家のVWに影響があるわけではないが,ドイツの経済界に及ぼす影響は大きい。ギリシャ問題どころの規模ではないのではないか。

これまで何台か乗り継いできたVWにはどれも失望することはなかったので、信頼はしていたが、一番を目指す、というのは、よほど身の丈にあったやり方で行かないとどうしても何処かに無理が出る。この失墜した信頼を取り戻すのは容易ではないが、VW愛好者としては、もっと真面目にやれ!といいたい。

ディーゼル車が日本で正規輸入されなかったのは幸いだった。日本人がディーゼル車をあまり買わないのは、イメージの問題もあるが、そもそもガソリン車より値段が高いので、よほどの距離を乗らないともとが取れない、そこまですることはないのじゃないの、というところが本音であろう。一日に1000キロも走るヨーロッパ人とは使い方が違うのだ。

でもここまで組織ぐるみでやると、データをごまかしているのは他にもあるのではないか、と当然勘ぐりたくなる。しばらくニュースから目が離せない。

難民問題 [一般向け]

なるほど、そういう伏線があったか、と感心した。ドイツがシリアの難民受け入れに積極的なのは、ドイツの労働人口の減少が背景にある。難民の人たちをドイツ化させ、労働人口減少対策の一環にしよう、という思惑からだ。なかなかしたたかではある。メルケル首相がEUの他の国に呼びかけ、この問題では完全にイニシアティブをとっている。日本も労働人口減少という同じ問題を抱えているにもかかわらず、難民受け入れに消極的なのはなぜか。私が思うに、陸続きのドイツと島国日本との地理的条件の差のため、ドイツ人は外国人慣れしているのに対し、日本人は外国人が増えると治安が悪くなるとか、日本人の職を奪われるとか、とかくマイナス条件を考える結果及び腰になるのであろう。ドイツを見習え、とは言わないが考えるべき問題ではある。

誰も好き好んで難民になっているわけではない。自分の国に安心して住めないから生き延びるための最後の手段として自分の国を出るしかない、という過酷な選択肢しか彼らには残されていない。それを人ごととしてしか日本人が考えないのは、シリアという国があまりに遠く、馴染みが薄いからでもある。ヨーロッパ人にとっては聖書の舞台でもあるシリアはいわば自分の国の延長線上にある、と考えるのとはわけが違う、という思想的背景もあるので無理からぬ面もある。

一方、シリア難民の通過点で問題になっているハンガリーとギリシャのコス島。ハンガリーはまだしも国土が広いから、なんとか手の打ちようがあろうが、コス島は本当に小さな島で、ここに難民が大挙押し寄せたら島の人の生活はめちゃくちゃになってしまう。この難民ルートは、私も昔、トルコ旅行の際、家族旅行でとったのと同一ルートでもある。トルコ領のボドルムからギリシャ領のコス島までは船で一時間足らず、ボドルム湾を出たと思ったらもう着いてしまう。乗船の際、パスポート審査がなければ、国境を越える、と意識はほとんどない。コス島の側には私の記憶では何も入国チェックがないから容易にギリシャ領にはいれる。だから難民はこのルートを選ぶのであろう。トルコとギリシャは犬猿の仲だから、難民は陸上の国境を越えられないのでこのルートで海路ギリシャに渡るのだ。あののどかなコス島が今やシリア難民の集結所になっているとは信じがたい。

蛇足 ; ボドルムはトルコ南西部の地中海に面した風光明媚な都市で、古代ギリシャ帝国領だった時代はハルカリナッソスと呼ばれ、古代ギリシャの重要な文化的拠点でもあった。日本の一般トルコ旅行のツアーには入らない場所なのであまり知られていないが、古代ギリシャの色濃い都市である。

ロゴなんていらない [一般向け]

先に書いたオリンピック・パラリンピックエンブレムの拙ブログ、あれ以来いろんな意見が出て来ているが私の考えは終始変わっていない。分野がなんであれ、こと芸術に関する限り同じことが言える。

だが問題がここまでこじれると、まともな案はもう出にくくなる一方である。そこまでしてエンブレムが必要とも私は思わない。いっそのこと今回はなんにもなし、というのも悪くはない。オリンピックのオリジナルマークだけで十分ではないか。どうしても,というなら,下に日の丸の旗をそのまま掲げておけばよろしい。日の丸の旗のデザイン、国旗のデザインとして世界広しといえども、滅多にないすばらしい先人のデザインだと思う。あれを超えるデザインは不可能ではないか。簡潔で明瞭、しかも簡潔であるがゆえに多くの国旗の中でも目立ちやすい。聞くところではこのデザイン、もともと薩摩藩から出たアイデアだそうだが。


エンブレム [一般向け]

昔なら何事も起こらなかった事件だろうが、ネット社会の現在、瞬時に世界中のエンブレムと比較できる時代になってしまったから、オリンピックロゴマークのやり直しをせざるをえなくなった事件は、私はどちらかといえば同情的にみている。

音楽の世界は先人が作ったものを「パクる」、ということを原動力に発展してきた歴史がある。絵画の世界もそうで、ピカソは自分の贋作問題について「その作品が自分が作った本物であろうが、偽作であろうが作品自体が良ければそんなことはどうでもいい」と喝破している。

人が作ったいい作品を模倣し,さらには元の作品より「俺ならこのネタを使ってもっとマシな物を作って見せる」という競争心、創造意欲をかきたてる作品はそれだけの人の心を捉える優れたアイデアを内包しているから,真似される,ということはある意味、光栄に思うべきなのである。もし、バッハの時代に著作権,著作侵害問題があったら現在、私たちはバッハのすばらしい大部分の作品を享受することはできなかったにちがいない。バッハは先人の優れた音楽を貪欲に模倣し、それに改良をほどこしてきた。ブクステフーデ、ヴィヴァルディ、フレスコバルディ、アルビノーニ,フローベルガー、クープラン、それにマルティン・ルターの編集したコラール集、まだまだ枚挙にいとまがないが、自分が使えると思った音楽的アイデアは全てパクり、さらにバッハの持ち前の天賦の才能によって今日の傑作群が存在する。マネをされたはずの多くの原作品はとっくの昔に忘れ去られたにもかかわらず。芸術は一日にしてならず、であって、いかなる大天才でもそれを育てる土壌がなければやはり才能は育たない。

要するに出来上がった作品が誰かの真似をしていようが、いなかろうが、「優れた作品かどうか」を絶対基準とすべきなのである。「誰かの作品に似ているかどうか」にばかり気を取られ、本質を見失うのは大変な損失であり、芸術家の創作意欲を著しく萎縮させてしまう。

でもあの大量のエンブレム入りの紙バッグやポスター、どうするのだろうと心配になるが、案外印刷し損なった切手と同じで、のちになって、ああ、あの物議を醸したバッグね、と貴重品扱いされ、値がつくかもしれないから、いらないならもらっておく、というのも手かもしれない。絶対的基準から見れば私はあのデザインはそう悪くない、と思っている。

まともな中学生か? [一般向け]

大阪寝屋川市の殺人事件は少々大げさに取り上げられすぎた。もとよりこの残虐な加害者は決して許されるべきではない。これは今後の捜査に待つしかない。

だが、マスコミを見る限り、大事な視点がかけている。中学生の男女生徒が仲良くすること自体問題はないとしても、夜通し町中、それもあまり人気のないところをうろつき、真夜中、明け方、とその間一体なにをしていたのか。親も親で、夜中の12時を過ぎても子供が帰宅しなければ「何かおかしい」と感じて行動を起こすのが普通ではないか。そういう風でもなかったところを見ると、子供の毎日はこういうことが常態化していたのかもしれない。

日本は治安がいいから大丈夫、というような問題ではない。外国(とひとくくりにするのも問題がなくはないが)であれば、だいたいそんな時間に子供が街中をうろつく方が悪い、何か起きても仕方がない、となるのが普通である。昔と比べるのは良くないが、子供は10時過ぎても起きていると親からはどやしつけられたものだ。「子供は早く寝ろ!」。

殺人犯はもとより悪いが、こんな時間に街をうろつく子供自身、それを放置しておいた親に責任はないのか。

G7開催地エルマウ [一般向け]

次回のG7が日本の賢島で開かれる、ということは大きなニュースになっているが、今日、明日開かれるドイツでのG7はそれほどの扱いにはなっていない。そもそもG7そのものが昔ほどの重みを持たなくなって、定例セレモニー化して来た、ということはあるかもしれない。そんなこともあって最近はどこで何が話し合われたか、私もほとんど覚えていない。

今年のG7はドイツ、それもエルマウ城、ということを知った時に、おや、と思ったものだ。まさかここがG7の会場になるほど、エルマウが私は特別な場所と考えていなかったからでもある。ドイツやフランスに多くある古いお城をホテルとして経営しているところは多く、日本でもお城に泊まるツァー、というのも人気を集めている。エルマウでなくとも、ヨーロッパのお城というものは大体が人里はなれたところにあるから、警備には都合がいいのであろう。

エルマウ城ではよくコンサートが開かれ、私も何度となくコンサート出演も依頼された。以前拙ブログでも触れたと思うが、学生時代、師事していた教授からエルマウでコンサートをするように、といわれたのがきっかけで、何度かここでコンサートをやった記憶がある。実に不便なところだが背後にドイツアルプスの麓にある風光明媚な場所で、車でもいけるが、教授からは列車で行くように、その旅費は学校で支給するから、というので鉄道旅行ができるのにつられて行ったようである。コンサートは一晩かふた晩だが、ギャラは出ないが、その代わりいつまででも好きなだけお城に滞在してよろしい、その間の食事も洗濯も生活のすべての面倒は見る、という条件だったと思う。

当時はEilzugしかなかった、ボロい列車でミュンヘンから南下すること約一時間あまり、ミッテンヴァルトよりもさらにオーストリアとの国境に近く、クライス、という片田舎の駅で下車。駅員にその旨告げるとお城に連絡がいって車の迎えがくる、というシステム。駅には公衆電話もなく、もちろん携帯などない時代。エルマウ城は実際すばらしい場所ではあるが、いくら素晴らしくても一週間もいれば飽きてくるものである。お城のホールにはその頃珍しかったチェンバロもあって、自由に弾かせてくれるので、夢中でやっていたら、それを見ていた城主が「あなた、なかなかチェンバロも弾けるみたいだからこれも一晩やってよ」ということになり、生まれて始めて弾いたチェンバロでコンサートもやった。厚かましいというか、恥知らずというか、怖いもの知らずというか。若くて怖いもの知らずだからこそできる、ということだってある。ああ、懐かしいエルマウ!!

やりすぎではないか [一般向け]

家も立てて40年も過ぎるとあちこち具合が悪くなり、リフォームも必要になる。中でも普段意識しないがトイレはこわれると深刻である。幸い我が家は一階と二階にトイレがあるから、片方ダメでもとりあえずなんとかはなる。が、そろそろこれも限度にきた。そこでトイレのリフォームを決断したのである。

日本のどの建物もそうだが、トイレを見ればだいたいいつ頃建てられたかわかるというくらいトイレの器具は,年を追って進化する。が、業者から最近のトイレのカタログを見せられて仰天した。ここまでやるか,という感じである。私はあちこち最新式のホテルのトイレも知っているから少々のことでは驚かないとは思っていた。だがその進化は予想を超えている。何よりいまの製品は快適さを追求しながらも,エコであることを強調するのは車も電化製品も同じこと。

最新式の便器の最大の特徴は、用を足すのに一切便器に手を触れさせないのがウリ。人がトイレに入ればセンサーが感知して自動的に蓋が開く(そもそも便座に蓋があるのは私は日本以外見たことがない)。さすがに大か小かまでは予知できないが、壁のスイッチで便座は自動的に上がる。用をたしたあとは、センサーが大か小か、さらに分量まで感知して、最小の分量の水で流すことができる。これには航空機のトイレのような吸引方式も一部取り入れられている。日本トイレ独特のタンクに注入する水でついでに手を洗える、という方式は変わらないが「小」の場合あまりに水の使用量が少ないので急いで手を洗わないと水はでなくなってしまう。

やることはそこまでである。あとは数秒後に自動的に蓋は閉まり、ノズルは自動洗浄され、脱臭装置は働き、滅菌も行う。以前は手動であったから、「大」の色や状態、血が混ざったりとかの異常がないかも観察できたが、いまはゆっくり見ている暇もない。だがその際、短時間でよく見えるように照明のLEDが点灯するのにはただ恐れ入るほかない。

確かにノロウィルスとかの感染症に家族の誰かがかかった時はこれは実に合理的であろう。私はすっかり感心してしまい、早速取り替え工事をやってもらったので、目下我が家の最新兵器となっている。最初、センサーがあまりに敏感でトイレの前を通るだけで蓋があいてしまう、というのは少々困りものだったが、これも学習するのかどうか、最近はそういうトラブルもなくなった。中国人が日本に来てこういうものを爆買するのもわかる気がする。ただ、今後こういう家庭に育った子供が、外国へいったらどうしていいやら、すごく困るのではないか。いまのトイレ産業、ものすごく進化したが少しやりすぎの気もする。

大塚国際美術館 [一般向け]

四国旅行の最大の目的は、実はこの美術館を見ることにあった。JR鳴門の駅から車でさらに20分くらいに不便なところにあるのでアクセスが容易ではない。この美術館の特徴は陶板を用いて世界の名画を原寸大で再現したもの。

だが、そういうだけで本物志向の人は顔をしかめるであろう。しかし陶板は現在の技術を持ってすると信じ難いほどの色彩感、材質感がリアルに表現できる。この美術館の目的は壮大である。たとえば我々が世界の美術館で見ることのできる実物の美術品の数々は年が経つにつれて、材質は劣化し、色彩は実際に描かれた時から見るとかなり違ったものになっているはずである。それを現代の状態を陶板で再現して保存すると、陶板は劣化しないので、以後何百年経ってもほぼ同じ状態で見られる。

音楽に関して言うと、作品が何百年経とうと楽譜という「記号」で伝えられるから、言って見れば音楽作品がディジタルで保存されているのに近い。バッハが書いた音符は、現在我々はほぼ同じ状態で接することができるが、美術品に関して言えばラファエロが描いた当時のままの色調、質感で我々は見ているわけではない。

ここに掲げた画像はごく一部に過ぎないが、たとえばシスティーナ礼拝堂のダ・ヴィンチの天井画、建物から原寸大で再現され、それを、下から見上げることもできるし、中央の高さから観察することもできる。それによってこの五層に描かれたスケールの大きさと構造をより理解しやすくなる。この色調はシスティーナ礼拝堂の天井画が最近修復されたものを元にしている。

全部を一日で見るのは不可能である。とても歩いてみきれるものではないので、私は一計を案じ、車椅子を借りた。これで移動はずいぶん楽になる。何より写真がいくらでも自由に撮れるのがいい。レストランでとった昼食の「鯛めし丼」がなかなかうまかった。

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ご存知、ピカソの「ゲルニカ」である。人間の蛮行、愚かさはいまも変わっていない。強烈な怒り、描写を前に、私はしばし呆然とし、言葉もなく佇んでいた。

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オレオレ詐欺(2) [一般向け]

ほとんど私には理解できない。こんな稚拙なやり口にひっかかる人のいることが、である。
我が家ではもう4回目である。うち、2回は私が電話口に出て、2回は妻が出た。いきなり名前も名乗らないで「カバンを無くしたんだけど」聞きなれない声だから、私にはその先のシナリオはすぐに読み取れた。「名前をまず名乗って下さい」と言ったら切られた。妻が出た時は息子の名前を名乗ったが声と話しぶりですぐに「オレオレ」だとわかったそうである。まあおおかたの人にはこうやってすぐにバレるであろうから、成功率は1/100くらいだという。それでもたまに成功するからこの種の犯罪がなくならないのであろう。

なかには立派な人もいて騙されたふりをして応対を続け、警察に通報して現場で捕まえたケースもあるようだが、私はそこまで物好きではない。が、銀行で少しまとまった金額を振り込もうとするといかがわしい目で見られるのが不愉快である。警察からも時折電話がかかる。うちにもそんな電話はかかりました、というと、それはいつ、何時ごろで、どんな話ぶりで、としつこく聞かれる。面倒だから「よく覚えていません」というと、そういう時はかならず110番に連絡を下さい、犯罪撲滅にご協力を、という。ご協力をするのはやぶさかではないが、あれこれプライバシーを探られるのがイヤなのだ。でもうちの家族構成が知られていると思うと気味わるい。

実際のところは、もっと重要なプライバシーもだだ漏れになっているのだと覚悟して日常生活をしなければならないのだろう。JALのマイレージカードの情報がかなり漏れた、という新聞報道があったがこんなのは氷山の一角にちがいない。聞きもしないのに、わざわざJALから「お客様のマイレージ情報は漏れておりませんのでお知らせします」という電話には思わず笑ってしまった。

拉致問題 [一般向け]

この話は無理筋であろう。調査状況が聞きたければ平壌に来い、だって。先代のキムさんが拉致を認め、謝罪し、その続きの話なのであるから、話が逆であって、平壌から日本へ説明に来るのが筋ではないか。日本から出かけるなど、はなからまともな話ではない、とどうして誰も反論しないのであろうか不思議でならない。先方から日本に説明に来たいのだが、という話なら拒まないものでもない、と返事をするのがせいぜいのところであろうと私などは思うのだが。制裁一部解除は早すぎた、というしかない。

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