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吉田秀和先生を偲ぶ [音楽全般]

享年98才だそうである。ふだん滅多にお会いすることはないが、戦後日本を率いてこられた評論家として長く記憶にとどめるべき巨人であろう。日本戦後音楽史の節目節目で、リーダーシップを発揮されてきた。新しい音楽教育を目指した桐朋学園大学の立ち上げ、新しい現代の音楽を紹介する、軽井沢の二十世紀音楽研究所、本業である評論の分野では、音楽批評のあり方を海外の人たちとの交流も含め、音楽評論という分野を日本で確立した最初の人であろう。

桐朋学園に関しては私はあまり関係がなかったが、でも、私の人生の節目節目で吉田先生にはお世話になっている、というより、先生は音楽へ進む若者にとっての将来を指し示す指針的存在でもあった。
始めてお会いしたのはまだ私が20歳ごろのこと。下宿生活をしていた私の部屋にお出でになり、音楽雑誌の取材を受けたのである。いわば吉田先生から取材を受けたわけだ。先生は当時すでに押しに押されぬ有名な存在だったから、さすがおしゃべりの私も相当ビビった。何をしゃべったかは覚えていない。

その後数年して当時の若い気鋭の作曲家、柴田南雄、入野義郎、黛敏郎、諸井誠などと新しい音楽を演奏し、紹介する、という二十世紀音楽研究所を立ち上げられ、ウエーベルン、シュトックハウゼン、ブーレーズ、(当時はバルトークやシェーンベルクもその範疇にあった。メシアンの名前を聞いたのも始めてであった)など、新しい曲が演奏紹介され、毎年夏の軽井沢の音楽祭は名物となった。立ち上がってから2年ぐらいして、岩城宏之さんなどと共に私も会員のメンバーに加えられ、たくさんの新しい曲を演奏してきた。

まだ武満徹などという人が世に出ない時代、ここで新人作曲家のコンクールも行われ、武満さんも応募者の一人だった。信じがたいだろうが、まだ23才にしかならない私も審査員にひとりにされた。しかも作曲コンクールの審査員なのだ! 私は武満さんの斬新な作風に打たれ、真っ先に入賞候補に推薦した一人だったが、懐疑的な意見もあった。ともかくみんなまだ若く、熱気に溢れた雰囲気につつまれていた。普段はメンバーの何処かの家に集まり、議論をたたかわしていた。私は一番若くて何のことやらわからず、ただ呆然とはしていたが、そこで得たものはのちの私の貴重な精神的財産となった。

吉田先生、ありがとうございました。合掌。
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