SSブログ

クララ・シューマンピアノ曲全集(続き) [ピアノ音楽]

16歳ごろのクララの作品を見るのはまことに興味深い。ローベルトのクララへの思いは、彼の作品の中にクララの主題があちこちに見られることでその胸のうちが伺える。先述の4つの性格的小品の第4曲のテーマは、ローベルトが作曲しつつあった第一ソナタに表れている。クララのファンダンゴの主題は減5度の、まさに魔女の踊り(Hexentanz!)ともいうべき、薄気味の悪い音程の動機は誠に秀逸なものであるが、減5度の連続という音程は長大な曲の展開には不向きである。これに対し、ローベルトは主題を同じリズムを使いながら、音程だけを完全5度に変え、長大なソナタ形式にふさわしい、発展性のある素材に変化させてソナタの重要な発生動機とした。クララ、ローベルト、どちらの発想もただものでない。


それ以外にも、謝肉祭のなかの「ドイツ風舞曲」(メヌエット)、ノヴェレッテ第8番中間部の「遠くよりの声」(ノットゥルノ)、ダヴィド同盟の舞曲の冒頭主題(マズルカ)、などなど、探せば二人に関連性のあるモティーフはほかにも見つかるであろう。重要なのはクララの作品の中で、とくに個性的で類をみない「発生動機」をローベルトが見逃していない、ということである。クララは自分に十分創作の才能があることを自覚しながらも、作曲家の道を選ばなかった。むしろピアノのヴィルトュオーゾの道を選んで、夫やショパンやブラームスの作品を精力的に演奏して世に知らしめた。歴史に「もし」はないが、ローベルトが、ではなく、クララが手を痛めて、創作の道に進んだら音楽史はずいぶん変わったに違いない。

ところで、二人の結婚に反対して裁判で負けた父親のフリードリヒ・ヴィークはその後どうなったか。
ピアノ教師として、すぐれた見識を持ち、その名声は全ヨーロッパに行き渡っていたヴィークは、メンデルスゾーンが開校したライプツィヒの音楽院の教授の候補に上がっていたほどであった。しかしそれは叶わず、結局モシェレスが選ばれた。クララも音楽院の教授になっていたから、裁判の一件がヴィークのその後の生活に大きく影を落としたであろうことは想像に難くない。
(お台場、日航ホテルで記す)
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0

弾丸ツアー(2)メルセデス230SLK ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。