もう年号は廃止すべきだ [一般向け]
私自身はもう学生時代いらい昭和や平成年号を使っていない。理由は使いづらいからだ、自分の書類はもちろん、公式書類でも平成何年、と記すようかかれていても、わざわざ消して西暦年号で記入している。
もう一つ、文書はすべて横書き。これは中学生以来そうで、国語の試験も試験用紙をわざわざ横にして、回答はすべて横書きにした。これも、理由は簡単で、鉛筆にせよ、インクにせよ、すでに書いたところの上を手があたることになるので、汚れて読みにくくなるからだ。もう一つ、数字や外国語をそのままの綴りで書くとき、いかにも具合が悪い。当然国語の先生からは注意されたが、私は理由を述べ、全く変えるつもりはなかったし、先生も納得されたものと見えてそれ以来注意はされなかった。
例外はもちろんある。公的文書でそうしないとどうしても受け付けてくれないときは、やむを得ず平成年号を書くがそれでもカッコして2007年と記入する。
国際化時代、といいながら年号がいまだに残っているのはアナクロニズムではないか。こんなことをいうと、いや、年号は日本独自の文化だからこれを否定するのは日本文化の否定することにつながる、という反論に必ず出くわす。年号を、尺貫法を禁じたように法律で禁止する必要はない。尺貫法を法律で禁止したから日本独自の文化に影響を及ぼしたか? これも私はかなりな程度悪影響を及ぼしてはいるが、それでもメリットの方が大きいからそうしたのだろうと思う。年号も同じである。これのために普段どれほど私たちは不便を強いられていることだろう。大正何年、といわれても西暦だと何年で、この頃は世界の動きはどうなっていたのか、という認識と全く結びつかない。歴史の大好きな私が高校時代歴史が大嫌いだったのは、年号のつまづきによるところがおおきい。
確かに明治、大正、昭和という年号を見るとその時代がおおよそ想像できる、ということはあるが、それと世界の流れとどうつながっているか?ということになるともうちんぷんかんになり、日本での出来事を世界の歴史の流れのなかで見る、ということができなくなる。かくて日本人は、世界の流れと、日本の流れを2本立てでいつも見る習慣を強いられているのだ。
そもそもキリスト教文化に由来する西暦年号も私は全面的に良いと思っているわけではない。しかしそうしたからといって日本の文化を否定することにはならない。いつになるかは判らないが、いずれ早かれ遅かれ日本の年号は使われなくなるだろう、という気はしている。
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