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0系の引退 [鉄道あれこれ]

 残念だがこれは乗ることが出来なかった。なにしろ、よくからだが持ったと思うくらいこの2週間は多忙を極めた。よってブログも鉄ネタはすっかりご無沙汰していた。

 新幹線が走り出して44年だそうである。何度かブログに書いたが、新幹線は世界の鉄道をすっかり変えた。新幹線が成功すると世界中から日本に鉄道マンが見学にやってきた。あるドイツの鉄道ジャーナリストが嘆いた。「昔はドイツは世界の鉄道最先進国で世界中からドイツの鉄道を見るためにやってきたものだが、いまや、ドイツも含めて世界中の鉄道マンが日本に押し掛けている」。

 彼らがびっくりしたのは新幹線のシステムだけではない。蒸気機関車に代表される、汚い、きつい、かっこ悪い、のいわば3Kの職業だったのが、さきのジャーナリストによれば、「運転手や車掌はホテルマンのような白手袋姿でらくらく仕事をこなし、人々は、時刻表すら見ないで、まるで市街電車にでも乗るような気軽さで長距離の旅行を楽しんでいる・・・・」。

 この立役者が0系であったのだが、寄る年波には勝てず、現役を昨日の運転で終えた。イベント列車としてしばらくはのこるそうだが、私なりの感慨もある。当時斜陽産業と思われていた鉄道として画期的なことはたくさんあったがそれはもう語られ尽くしている、と思うのでここでは触れない。

 開業直前ですら、こんな200キロという危険な速度で走るものは、実用にはならず、いずれ高速道路に転用される日が来る、という論議がまともにされていた。開業してからも、新幹線はこわくて自分は乗らない、という知り合いは結構いたものである。私はそうは思わなかったし、仕事も忙しかったこともあって当初からそれこそ「市電にでも乗るような」気軽さで利用していた。しかし当初、故障もいくつか起きた。最初に乗ったグリーン車の8号車に乗車中、突如私の頭上ですさまじい音がして、列車は急停車した。窓ははめ殺しだから、外の様子はわからない。しばらくして、8号車のパンタグラフがふっとんだ、という情報が流れた。まもなく列車は動きだし、多少の遅れで終着駅の新大阪に到着した。なつかしい0系、さよなら。そしてご苦労さんでした。




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seidoh

こんばんは。
新幹線開業当時、私などはまだ幼稚園から小学校へ上がる頃でしたが、故郷の大阪から父親の転勤で上京したおかげで、開業したばかりの「ひかり号」に何度か乗る機会に恵まれ、学校で大いに自慢したものです。
一方、一部座席の窓下に小さな非常口があったことや、トンネル内でトイレのドアが開かなくなったというニュースなども、子供心に印象的でした。ご紹介の「200キロという危険な速度」「こわくて乗らない」というお話を読んで、そんな懐かしい記憶を思い出した次第です。
by seidoh (2008-12-01 21:49) 

klaviermusik-koba

seidohさん
コメント有り難うございます。世界で初めての200キロ運転44年も走り続け、しかも大事故は一度も起こさなかったのだから大変な業績だと思います。
ちなみに私たち夫婦が結婚したのがちょうど0系誕生と同じ年です。
by klaviermusik-koba (2008-12-02 12:33) 

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