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ベルリンの壁崩壊20年 [政治]

 世の中あり得ない,と誰しも思っている常識があっという間にかわる、ということはこの年齢まで生きると何度か経験する。しかし中でもベルリンの壁崩壊はここ20年の間の最大の事件だったと思う。その頃、私はベルリンの壁崩壊は考えたことすらなかったが、北朝鮮はまもなく崩壊するだろう、と思っていた。ところがあれから20年、中央ヨーロッパを隔てた鉄のカーテンはご承知の通りだが、北朝鮮はまだ持ちこたえている。つくづく先のことは分からないものである。

 ちょうどその年の秋、東京では第4回の日本国際ピアノコンクールが2週間開かれていて、私もその審査員の一人だった。世界から集まった審査員は世界の騒然とした動きに毎日もっぱら話題が集中した。いろいろな国の審査員がいろいろなことを言った。その中に東ベルリンから来たピアニスト、アンネローズ・シュミットがいた。まだその時点では東西の壁がくづれると予想した人はいなかった。でもあまりにも動きが急なので、私は直感でひょっとしたら、と思わないでもなかった。軽い冗談のつもりで、私は雑談にまぎれて彼女にいった。「あなたがこのコンクールを終えてベルリンに帰られる頃にはひょっとしてすでに壁は消えているのじゃないですか?」全員が悪い冗談と受け取ったと思う。仮に本当にそうなるにしてもその結果世界がどうなるかは誰も想像すらつかなかったのだ。

 第3時世界大戦になる可能性だってあった。そうならなかったのは、ソ連も東ドイツも経済的にあまりに疲弊していたからであろう。戦争にもならず、東西が一緒になれたのは奇跡的だとすら思う。昨日のTVのドキュメントではじめて知ったのだが、東西ベルリンを隔てた通用門をそこの番人が開けることになったのは、どうやら東側の(ソ連軍も東ドイツ軍も)命令系統がすでになっていなくて、上層部は東の住民にも一部外国旅行をみとめる、くらいのつもりだったのが、下に命令が伝わるにつれて曖昧になり、当の番人はどうして良いか分からず、自分の決断で門を開けた、これが東西ドイツ統一のきっかけになった、という。実に面白い話ではないか。

 資本主義の勝利、と思われた。確かに社会主義が世界を制覇するよりはマシであったろう。リーマン・ショック以来、やはり自由資本主義もダメじゃないか、といわれ始めているが、当時の社会主義国家を身をもって体験した人間としては、今の日本の社会がいくらひどい、といったって、あの社会主義体制にくらべれば、はるかにマシ、といまでも思っている。ポーランドは来年ショパン生誕200周年で沸き立っている。壁が崩壊して最大の恩恵を被ったのが旧社会主義国家の中ではポーランドではなかろうか。1960年のポーランドと、2009年の現在のポーランドは私には全く別の国に見える。
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Akira

あの壁が崩壊した時、私はのほほんとKarlsruheのアパートでラジオを聞いていました。その直前にようやくテレビを注文して配達を待っていたのですが、結局届いたのはその数日後のこと...。

壁が崩れた翌朝早朝に売店に走って新聞を買い込んで来たのは言う迄もありません。確かにその数ヶ月前から予兆らしき動きはあったものの、まさかベルリンの壁が崩れるとは思ってもいませんでした。

その前年には、2回程西ベルリンに観光に出掛け、東ベルリンに1日ビザで入国したこともあります。その他友人と2人でベルリン経由でドレスデンに行ったことは今でも思いで深い体験です。その時のベルリンの風景は、戦前に戻ったような錯覚を憶える程の街並でした。
今となっては貴重な体験ですが、旅行する自由もない東独の市民にとっては、その自由を獲得できたことは他の何にも代え難いでしょう。

東西ドイツ市民の心の統一が早く叶うことを祈るのみです。
by Akira (2009-11-10 20:22) 

klaviermusik-koba

akiraさんはその時ドイツにおられたわけですから、より身近に感じられたことでしょう。あれから20年たってもまだまだ東西ドイツの格差問題は深刻なようです。

ところで今日はポーランド独立記念日。あれだけ何度もロシアやプロシャの侵略を受けて復活した国なので、どの日をもって独立記念日とするかが難しいようです。私は立場上ポーランドとの結びつきはわりに大きいのですが、今日の独立記念パーティーにもポーランド大使の招待を受けているので出かけます。そのまえにインターネットでそのいきさつ、概略をにわか勉強して(笑)・・・。ポーランド語がほとんどできないので少しおっくうではあるのですが。
by klaviermusik-koba (2009-11-11 09:18) 

Akira

今日はポーランドの記念日ですか。私がブレーメンの語学学校で初めての友人がポーランドからやってきたThomas君で、彼の祖父がドイツ人だそうです。で、彼の名字はちょっとカタカナでも書きづらい、そして日本人には言いづらい名前なのですが、ドイツに長く住むのだから名字を祖父の名前に変えると言っていました。

その時は、まだ冷戦時代だったので、彼はどうやって西ドイツに来たのかは、聞きませんでしたが、今はどうしているのでしょう。
その彼から、ポーランド語を少しばかり教えてもらいましたが....若気の至りで下品極まりない俗語ばかり教えてもらって...でも、楽しい日々でした。
by Akira (2009-11-11 14:52) 

klaviermusik-koba

私の場合もそうでしたが、西側からポーランドにはいるのも、その逆も、普通は全く不可能な時代でしたが、ごく限られた政府承認の留学生や政治家だけが出入りが許されましたから、その人は多分ポーランド政府で認められた特別の人ではなかったか、と思います。運命は不思議なもので、場合によっては私はドイツに行かないでポーランドで留学生になっていた可能性も実はかなり高かったのです。
by klaviermusik-koba (2009-11-11 16:44) 

Akira

そうですね。ポーランドから来た彼がドイツでも高額と言われる至れり尽くせりの語学学校へ通っていた訳ですから、それだけでも充分に特別な人と言えるかも知れません。ただ、お宅にお邪魔したときは、結構質素な生活でしたし、アルバイトもしていて生活費は稼がなければならないような感じではありました。

不思議な運命と言えば、おそらくkobaさんも良くご存知であろうショパンコンクールの5位に入賞した日本人女性は、東京のドイツ語学校で同じクラスで仲良くしていました。しかし、彼女は最初ドイツ留学の予定が、大学での先生がポーランド人ということで、結局ポーランドへ留学となったそうです。もし彼女がドイツに留学していたら、また別の人生になっていたかも知れません。
by Akira (2009-11-11 21:19) 

klaviermusik-koba

なるほど、誰だかだいたい見当はつきますがそういうこともあったのですね。後から考えると、あの時の決断がちがったら自分は別の人生を歩んでいた、と思うと運命の不思議さを感じます。決断をするときはそれほど重大に考えなかったとしても、です。

ポーランドとドイツは教科書問題も話し合って良い方向に進みつつあるようですが、いまだにシレジア地方(ポーランド語ではシロンスク)はドイツ語とポーランド語が両方使われているようで、ほかにも国境付近にはそういう微妙な問題がまだ存在するのだと思います。
by klaviermusik-koba (2009-11-12 09:15) 

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