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最良の原典版とは [日本ショパン協会]

 ある会合の席で武田幸子さんからショパンフォーラム2010年の研究発表の記録をいただいたので,目を通してみた。ピアニストでは河合優子さん、加藤一郎さん、研究者では武田幸子さん,といった人たちがそれぞれショパンの原典について,自説を披露し、演奏家として、研究者として、「ショパンを弾くのにどの楽譜を使ったらいいのですか」という素朴な疑問に答えようとしている。

 それぞれ、最新の研究に基づくショパン像を披露されていて興味深く読んだ。ショパンの楽譜の選び方はなかなか一筋縄ではいかないところがあって、最新の「ナショナルエディション」が多分一番推奨される、というのが基本的な意見だと思う。私もそれに異論を唱えるつもりもない。

 一方ショパンは即興演奏の大家でもあり、自作を弾く場合でもいつも同じには弾かなかったようである。当然場合によっては即興でパッセージやらトリルやら、はたまた、少々羽目を外したこともあったであろう。これはショパンに限らず,当時のヴィルティオーゾの間にごく一般的に行われていた慣習である。「原典通りに弾く」などということはは当時の演奏家の頭の片隅にもなかったに相違ない。そもそも原典などという概念すらなかった。ただ,楽譜を出版する段になると、作曲家は作品を最上の形で残したい、と当然考えるからいろいろと最後まで手を加えているが,それでもさんざん推敲を加えた最終的なものが決定版,ということを意味しない。

 ナショナルエディションは実際なかなか興味深い資料を提供してくれているが,その通りに弾けばそれで完璧、というものでもない。あくまで,それも現在考えられる限り最良の「資料のひとつ」ととらえるべきである。従来の楽譜になじんだ人たちが「なんか変だ」と思ってもまずそれに耳を慣らすみる必要はある。たとえばいまだにほとんどの人が慣れられない例のひとつに「幻想即興曲」がある。

 あるコンクールでこれが課題曲となった時、参加者の誰もが例外なくなんの疑いもなく昔のフォンタナ版のままで演奏していた。これも日本の一般のピアノの先生の不勉強を物語る以外のなにものでもないが、もっと勘ぐれば他人と違う演奏をすると審査員に違和感を持たれてコンクールには不利に働くから知ってはいるけれどもこの際はまあやめておこう、と判断する先生もあるかもしれない。ナショナルエディションに慣れてみると、フォンタナ版はいかにも凡作にみえて来るから不思議である。それも熟知した上で,なおかつ自分は「フォンタナ版」を弾くのだ,というならこれはこれで一つの見識とはいえる。

 まだ研究が十分とはいえない1850年前後のピアノの演奏習慣がもっと一般に知られ,普及して来ると今度は,原典版をもとにしながらももっと即興的な自由さも加えてショパンを演奏することが当たり前になる時代が来るかもしれない。バッハやモーツアルトはすでにそうなりつつある。多分当時の例外はベートーヴェンでたとえ1音でも勝手に替えられると断固として怒った,というのは直弟子のチェルニーが証言している通りである。

 しかしそうはいっても時代の人の好み,演奏に期待するものがすでに19世紀とはまったく違ってきている。それも考えればショパンの演奏もまだまだ変わり続ける余地は残されているともいえる。
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