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佐村河内守考 [音楽全般]

どんな音楽に感動を覚えるかは人によって様々であるから、私の音楽に対する感動の覚え方が人と違うからと言って他人の感性をを否定するつもりはない。70年以上もいろいろな音楽に接してきて思うことは、自分の感性を頼るほかない、という単純な当たり前のことに帰着する。ベートーヴェンの音楽が素晴らしいと思うのは、耳が聞こえず、大変な辛苦を経て自分の音楽を築き上げてきた音楽家だからではない。耳が聞こえなかろうが、貴族で安楽な生活を送ってこようが、そんなことはどうでもいいのである。

佐村河内なにがしの一件はマスコミに乗りやすい物語がうまく設定された。音楽の良し悪しとは関係なくマスコミに乗りやすい条件が揃っていたというにすぎない。「それでも涙を流して感激して聞いた人もいるではないか」という反論も当然あろうが、話はこれも簡単で「私はそういう音楽的感性は信じない」それだけである。ここが重要で「人の感動の仕方は自由であり、否定はしないが、音楽家としては、音楽としての質は私の感性からすれば信じない」ということである。これは作曲家が有名か無名かとは別物である。

私もベートーヴェンの音楽がすべて素晴らしい、と思っているわけでもない。一例をあげれば時折演奏される「合唱幻想曲」は私はベートーヴェンの霊感の薄い「壮大な駄作」ではないかと思っている。これは自分でも演奏の経験をし、スコアを詳細に読み込み、また人の演奏を聞いての感想である。もしかして素晴らしい演奏を聞けば評価はある程度変わるかもしれないが、それでも基本は変わることはないと思っている。

演奏があまりよくなく、不満はあっても、ショパンのバラードの素晴らしい曲の出来栄えに関しては、私は頭の中で演奏を修正しながら聞いているから、いい音楽だなあ、と感動する点では、演奏ができの悪い学生だろうが、天才的なピアニストであろうが、それほど変わらない。要するにあるレベル以上の演奏であれば、その曲を評価し、鑑賞する妨げにならないのである。極端な例では、作曲家の池之内友次郎先生のように、スコアをみれば演奏など聞かなくても曲はわかる、という。極論だがわかる気はする。

でもこんなことを言っているようでは、ピアノの先生という職業は成り立たない。そういうわけで、ピアノの演奏の良し悪しは否が応でも評価しなければならない立場にあるが、私には作品がいいか、悪いか、が興味の核心なのである。その観点からいうなら、佐村河内なにがしの作品の価値については論外、としか言えない。

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