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あちらを立てればこちらが・・・ [音楽・メルクリン ]

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 大分我が家のレイアウトにも28センチ客車が増えてきた。これは確かに実感により近くなり、結構なことなのだが問題が起きた。うちのレイアウトの4線ある引き込み線は27センチ客車が5両と機関車を標準に作られたので、28センチ車になると編成ごとはいらなくなってしまう。5両編成だと合計5センチ以上の差になり、客車を1両減らすか、機関車を切り離すか、しかない。
 
 メルクリンが最初実物の26,4メートルの客車をモデル化するときもずいぶん悩んだことであろう。ここで違うのは日本との差である。日本は住宅事情などお構いなく、編成を考えて客車を短く作る、という発想は浮かばなかった。(幸か不幸か日本型は20メートルが主流だから助かっている部分もあるが)メルクリン社ははじめから、列車を編成単位にして考えた結果、当時のドイツの住宅事情も勘案して24センチ、というところに落ち着いたのだと思う。つまり、単体としてより編成として列車を見ることを優先したのだ。

 私は音楽家だからやはり音楽も同じことがいえるなあ、とつくづく思う。ハイドン以来、シンフォニーのような大曲を聞くには人間の集中力はせいぜい、25〜30分が限度、とどの作曲家も考えたらしい。トータルとして30分が限度として考え、楽章数を4つとすると、曲の中心をなす第1主題はあまり長すぎてはいけない。展開の可能性が減るからである。だが後期ロマン派の作曲家はしばしばお構いなしに第1主題を心ゆくまで長くした。ブルックナーの7番などその典型だろう。結果として彼のシンフォニーはどれも長い。だからなかなか当時は一般に受け入れられなかった。私はベートーヴェンの大部分のシンフォニーの約30分、という長さは現代にあってもいい線だと思っている。これ以上の長さになると聞く方もそれなりの覚悟がいる。

 ドイツ人は何ごともトータルバランスでものを考えるのが得意な民族のようである。これが他の国では必ずしもそうではない。我々が「ブルックナーのシンフォニーも悪くないがどうも長すぎてね」というとドイツ人は怪訝な顔をする。「長すぎる?え、どうして?」これはどうも体力の問題だけではないような気がする。メルクリンの客車もブルックナー的になってきたみたい。

ふたつの「ラインゴルト」 [音楽・メルクリン ]

 いま私は二つの「ラインゴルト」にはまっている。一つはいうまでもなくワーグナーの楽劇「ラインゴルト」であり、もう一つはメルクリン社のロングセラーである昔のブリキ製をいまもしつこく作り続けている1920年代頃のいわば初代の「レトロ・ラインゴルト」5両セット客車。

 息子にいわせるとこの製品はメルクリン社は売れば売るほど赤字になるセットなのだそうだが、あまりによくできているので、と私の許可も得ずに買ってしまった(もちろんツケはわたしにまわる)。しかしこれはとてもブリキ製と思えない精度の高さ、クオリティの上質さ。勝手に無許可で高い物買われるので、私はそのたびに支払いに四苦八苦させられるのだが、それでも実物を目の前にすると、何故か納得してしまうのだ。これでうちには時代の違う「ラインゴルト」客車セットが4組も存在することになる。あ〜あ。でもこの「ブリキラインゴルト」18型の機関車にひかせるとこたえられないねえ。残念ながら実物の「ラインゴルト」はもはや存在しない。

 もう一つの「ラインゴルト」。これは話が少し難しくなる。ワーグナーはベートーヴェンを非常に尊敬し、多大の影響を受けた、とはよく物の本に書かれていることだが、「ハンマークラヴィア」ソナタを研究しているうちにふと思いついてラインゴルトのスコアをもう1度読み直してみた。「指輪」のライトモティーフの変容をみているうちに、これはまさにこの「ハンマークラヴィア」の発生動機の変容のさせかたをワーグナーはそのまま楽劇に応用したものではないか、と私は考えるに至った。第1楽章を「ラインゴルト」、第2楽章を「ジークフリート」、第3楽章を「ワルキューレ」、第4楽章を「神々のたそがれ」、と仮に当てはめるのはあまりに乱暴に過ぎようが、「ハンマークラヴィア」の巨大なソナタ全体がいくつかの発生動機を変容させて組み上げられている曲の構造はまさにワーグナーがもっとも共感したところではなかったのか。

こんな話もどこか、誰かと議論したいなあ。


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