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客車の長さ・再考 [メルクリン・音楽]

 ピアノを弾く人なら知らないものはないバッハのインヴェンション。これは教育用に作曲されたもので、楽譜はどの曲も見開き2ページ。バッハの自筆原稿を見ても2頁でおさまるようにかかれていて、どうしてもはみ出た分は、余白に五線をひいて書き足している。理由はいくつかあるが、弾いている最中に楽譜をめくる、という面倒を避けたことが最大の理由であろう。

 今のピアノを練習する人は、曲が暗譜で弾けるようになるまでは先生は仕上がったとは見てくれないし、生徒もそんなものだと思っているが、バッハは明らかにそうは思っていなかった。楽器は楽譜を見て弾くもの、という前提にたっていたので、曲が一段落する時にめくることを考えて作曲した。(もちろん例外も多い)

 わずか1分足らずの曲はどれも誰が聴いてもきちんと満足すべき終わり方をしており、短すぎる、と思う人はいない。それはひとえにすぐれた構成力による。2ページ、ピアノ用の2段楽譜にして6行、という大変な制約がある。そんな中でもいうべきことは余さず述べられていることは驚くべきことなのだ。

シンフォニーの世界から見ればインヴェンションはミニの世界。実物と模型の世界にどこか似ていなくもない。

 鉄道模型も制約だらけの「Kunst」であり、その制約は大は全体のレイアウトの構成から、小は小さなネジのような部品にまでいろいろな要素がある。ある模型会社のように、車両だけを作っている会社は全体を考える必要はない。1両の機関車がいかに実物に近く表現されるかだけを考えればいい。

 ところがメルクリンのように、鉄道模型にまつわるあらゆる要素を考慮に入れながら、トータルにものを考える会社はそれだけ制約も大きくなる。私はその大きな制約の中で、全体のバランスを考えながら、最小の部品にいたるまで、しかもどの構成のレベルでみても「良く仕上がり」、全体を見事な「構造物」にまで達成するドイツ人の精神に敬意を持っているが故のメルクリンファンなのである。

 日本の鉄道模型の会社で新幹線を25メートルの長さでは模型には不適当と考えて長さだけを100分の1で作る会社はないし、そもそも日本人はそんなものは誰も買わないだろう。ここにも日本人とドイツ人のものの考え方の違いがうかがえて面白い。


ポストホルン [メルクリン・音楽]

ポストホルン、という響きには音楽家にとってロマンティックなイメージがある。多くの音楽好きのひとは多分シューベルトの「冬の旅」の中の「Die Post」という曲を思い浮かべるだろうし、モーツアルトのシンフォニー「ポストホルン」を思い浮かべるひともあろう。シューベルトのDie Postは「郵便馬車」と訳されていることが多いがこれは名訳というべきだろう。来るはずのない恋人からの手紙を待ちかねて、「ポストホルン」の響きを聞くと、「なぜ私の胸はこんなに高鳴りを覚えるのだろうか」という若者のつぶやきが、ピアノの左手が馬の蹄の音を、ホルンの音が右手の付点のリズムで素晴らしく表現されている名曲である。この舞台設定は多分田舎のぼろい馬車にちがいないから、ここはピアニストは、がたぴしと少しかっこわるく、田舎っぽく弾かなければいけないのだが、ピアニストによっては少し勘違いして、さっそうとかっこよく弾くのを時々見受けるがそれではダメなのだ。

 ドイツの郵便局はまさにこのポストホルンがシンボルであったのだが、近代化とともに、少しデザイン化され、最近さらにイメージから遠ざかっているのは残念というしかない。はじめて私がドイツでこのポストのマークを見たとき、何とも言えない古くから知っている友人に突然であったような懐かしさを覚えた。

 ところでこのメルクリンの貨車に乗っている郵便自動車は自動車になってからも馬車のイメージがまだ色濃く残るスタイルだが、いかにも凹凸の多い石畳をがたぴし走る光景を彷彿とさせる。もちろんいくら私が年寄りでも実物を見たことはあるわけない。とはいえ、私は実物のポストホルンを所有している。自分では吹けないが、現代の大型で性能のいいホルンに比べてずっと小型で、(ポストホルンは馬をあやつる御者が片手で吹きならすから大型の楽器ではだめなのだ)この自動車にはそのホルンの絵がかなりリアルに描かれているはずだが、メルクリン製品では小さすぎて残念ながら確認は出来ない。
(ポストホルンにもいろいろ形や大きさの違いもあり、飾りもついていてヴュルテンベルクの自動車の絵がホルンに似ていなくてもにわかに判断しかねるところもあります)


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