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1992年の旅(1) [古い旅のアルバム]

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(Gottingen駅で [↑]DBの216 [↓]DDR (これにも1等車があるが、実質2等車とあまり変わりない)
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思えば若くて元気があった。まあこんな無茶な旅行が出来たのだから。

バイロイトで見るワーグナーの最大の傑作「ニーベルンクの指輪」は続けて聞いても4晩かかる楽劇だが、全部聞くには一週間のバイロイト滞在を必要とする。ついでニュルンベルクからICEでGottingenまで来る。ここからドイツ最大の狭軌鉄道ハルツ山岳鉄道(正確にはSelketal Bahnという)に乗るためである。Gottingenからハルツ鉄道の乗換駅、NordhausenまでDDRのボロい列車にゆられること1時間半。どこで泊まったかも正確には記憶にないが、Nordhausen近郊に2泊したことは覚えている。ここで丸一日、狭軌の蒸気列車を満喫した。それでも肝心のBrocken線には乗っていないし、全線に乗るには一日では無理である。

その後はHannover経由でGelsenkirchenに住む昔の生徒を訪ね(もちろんBochumの鉄道博物館を見る下心があった)。ついで列車(EC、例のメルクリンでおなじみ、SBBのシマウマ模様ハイデッカー車)でDortmundからスイスへ向かう。途中でBernのPaul Klee美術館に立ち寄るためここでも一泊。次の日、今回の訪欧最大の目的であるピアノ国際コンクールの審査員としての仕事があるジュネーブ到着である。ここで私は約10日間滞在。

家族4人で成田こそ同じフライトで一緒に出発したが、チューリヒ空港からは「じゃあね」で全員行動がバラバラ。最後に私のコンクールの審査員としての仕事が終るころ、全員ジュネーブに再集合し、全員で南フランスの古都アヴィニョンへ向かう。なんのためか。私は審査員の仕事疲れを癒すため、観光とカタラン・タルゴに乗る小旅行。

妻でさえ、いつも私と一緒にいたわけではない。ジュネーブで毎日ピアノばかり聞かされるのも退屈だから、とホテルの予約もせず、妻は一人でジュネーブからふらりとSBBとFSを乗り継いでイタリアに向かい、子供たちとイタリアのどこかで適当に落ちあい(当時ケイタイなどない)、迷子にもならず、ひどい目にも遭わず、イタリアをあちこちのんびり観光して約束の晩、帰りがあまりに遅いので私を少し心配させたが無事ジュネーブに帰還した。「途中で誰かがどこかで何か起こったらどうしよう」と考えたこともなかったし、「まあみんなどうにかしているはず」と全然連絡も取り合っていない。だれもフランス語もイタリア語も話せないが何とかなるものである。

フィレンツェのドゥオーモの塔のてっぺんで、眼下に広がるフィレンツェの街を背景に息子がとった妻の横顔写真がなかなか悪くないのだが、これは検閲の結果「掲載不許可」となった。

ルツェルンの「赤い矢」 [古い旅のアルバム]

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スイスのルツェルンに巨大な交通博物館がある。ここは実働状態にあるのもそうでないのも、静態保存されていて、静態保存である代わり、屋内に保存されているのでどれもピカピカに磨かれ、見るものを楽しませる。例の「赤い矢」。OeBBと同じものだがオリジナルの赤塗装のままであり、レタリングはSBB。

このモデルはメルクリンからまだアナログの時代以来発売され、なんどもすこしづつ趣向を変えてカタログに載った。アナログ時代、私は、真っ先に購入したものである。これ以外にも2両の永久連結版などいくつかのヴァリアンテがあるが、やはりこれが一番人気があるようで今でも、イベント列車としてときおり出番がある。この車両はおそらく実働可能な状態なのであろう。

この電車の特徴は、高速安定性を極度に高めるため、床がほとんど地面につくくらい低い。従って台車もモーターもそれ以外のあらゆる機器が両端のボンネットでも収まりきれず、室内にかなりな部分はみ出してきている。そのため乗車定員はだいぶん犠牲になっている。どのくらい高速で走れたかはわからないが、高速用電車としてはこれ以上には発展しなかった。考えようによっては超低床式の思想は低床式路面電車に受け継がれていなくもない。メルクリンモデルは初期にはMレールであったからポイントの切り替え装置(ランタンを含む)に車体が当たってカーブ方面には走れない、という欠点も持っていたにもかかわらず、愛嬌のある顔つきが面白く、今も大切にしている。無論、Cレール、Kレールには何の問題もない。Schienen Zeppelinと似たような高速化への一つの試みに終わったが、発想としてはいろいろみるべき点もある。

1990年のケーテン  [古い旅のアルバム]

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(荒れ果てたケーテン市街)
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(旧アンハルト公の城門)
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(半分くらい復元工事が終わっていたバッハザール)
以前ブログでふれたこともあると思うが、1989年ベルリンの壁が崩壊してから東ドイツを自由に行き来出来るようになったので、バッハの史跡をたどって歩いたことがある。「ケーテン」といえばバッハ好きの人なら忘れがたい地名であろう。ここ、アンハルト辺境伯のもとにバッハが奉職していたとき、私たちになじみ深い「平均率クラヴィア曲集第1集」をはじめとした、器楽曲の名曲の大部分がこの地で作られた。音楽家にとって忘れられない土地である。

ケーテンの町に車で入ってみてたいへん驚いたのは東独時代の街のさびれようである。街並みはこんな状態がいたるところにあり、バッハが奉職していたお城もこの当時、雑居ビルのような様相を呈していた。まともなホテル一つなく、あこがれの土地、として考えていただけに私の落胆も大きかった。ただひとつ、お城の中でバッハザールの復元工事が行われていて、現場を見ることは出来た。このホールの広さを見れば、管弦楽組曲やブランデンブルク協奏曲がどの程度の規模のオーケストラで演奏されていたかがまのあたりに分かる。それと、このくらいの復元でも当時の演奏の雰囲気が伝わってくる気がする。

LLANFAIRPWLLGOGERYCHWYROBWLLLLANTSILIOGOGOGOCH駅風景 [古い旅のアルバム]

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もちろんマニア集団のことだから駅だけ見て感心して終わり、ということはない。長時間、駅にがんばってたまに来る通過列車なども撮影した。ウエールズを横断する幹線であるにもかかわらず、列車は概して短編成で、急行列車でもこのモデルのような2両編成が主でたまに4両くらいの客車列車になるとディーゼル機の登場となる。スピードはかなり速い。140〜150キロくらいでは運転していそうである。

当時下の息子はスコットランドに留学していたから、この手のコレクションは結構ある。ただしDCであるから私のメルクリンの線路では走らない。それにフルスケールなので架線が邪魔をする。これはmade in england,バックマンの時代のモデルなので出来はそれなりであるが、最近は中国製に代わったとたん、精密度も走りも段違いに良くなった、とは息子の言。

世界一長い駅名 [古い旅のアルバム]

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これもウエールズ名物としてあることは知っていたが、わざわざこれだけのために回り道をするほどのこともあるまい、と私は思っていたのだが、YRFCの一行は絶対見たい、と言い張るので、ウエールズの半島北端に近いこの駅まで車を運転して来てみた。もともとウエールズはイングリッシュではなく、ウエルシュが一般的で、英語は通じるものの、駅名や地名は読めない。どうやら古代ケルト語に近いようである。世界一長い駅名としてギネスブックにも登録されている。

もちろん私にも読めない。そこで一計を案じ、駅員をつかまえて録音機を持ち出し、読んでもらった。しかしあとで回してみると、早口の上、つづりを見ながらでも読むことはとうてい出来なかった。この駅は無人駅ではないものの、急行もとまらない、なんの変哲もない田舎駅である。こんな辺鄙なところまで来ると列車の回数も少ないので、踏切の遮断機は通常の逆、つまり列車が通らないときはレールに直角に遮断機がおりて(列車がかりに来ても止まらざるを得ない)車は一旦停止の必要がない。列車が来るときに限って踏切が上がる。

日本では一日一回の列車でも踏切はレールと並行にあって誰も不思議におもわない。いかなる場合も法令では踏切の手前では車は一旦停車を義務付けている。確か、ドイツの法規では踏切がしまってさえいなければ車は一旦停車の必要がない。これは合理的である。日本は法規上一番厳しいと思うのだがそれでも踏切事故が結構多いのはなぜか。

Appenzeller Bahnen(2) [古い旅のアルバム]

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(写真はクリックしていただくと拡大、鮮明にご覧頂けます)
 私のAppenzeller Bahnの最初の出会いはこの旧型の電車を先頭に2軸客車、それも先頭の立派なものからだんだん最後尾にゆくほどショボい客車を何両も連ねた、思わず笑ってしまうようなユーモラスなパレード写真をどこかの写真集で見て、絶対一度は現物を見たい、と思っていたのである。たしか電動車はこの塗装だったと思う。さすがにうんと古い2軸客車はもう見られなかったが、比較的状態のいい何両かはSt.Gallenの駅構内の片隅におかれていた。やっと巡り会えた、という感慨でいっぱいになった。

ヨーロッパではなにかが新しいものにとり代わっても、長く使った古いものを大事に保存する、という良き伝統をここでもみる思いがする。おそらくは、2013年の現在でもこの4号電車は健在なのではなかろうか。この写真を見ていると、またもう一度このAppenzeller Bahnに乗りにゆきたい、という思いがふつふつと湧いてくる。魅力的な車両たちと、沿線の美しい風景が忘れられない。このときは残念ながら雨模様の天気でいい写真が撮れなかったから、今度はいい天気の時に。。。できればこの2軸の「1等車」にも乗ってみたいなあ。

Appenzeller Bahnen(1) [古い旅のアルバム]

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スイス東部にアッペンツェルという絵に描いたような美しい町がある。SBB St,GallenとAppenzellを結ぶ小私鉄があって、ほとんどの区間がラックレールというめずらしいものである。正確にはSt.Gallen-Gais-Appenzellの3つの都市の頭文字をとってSGABahnなのだが、通称Appenzeller Bahnenと複数でよばれる。

古い面白い電車がある、という期待で出かけたのだが、1985年すでにほぼ新しいモダンな電車に入れ替わっていてちょっとガッカリした。例によって機関車と電車の合いの子のようなもの、一両で手荷物室、1等車、2等車が一体になっていて、乗客の増減は客車で加減をする、というやりかたは変わらない。一方、旧型の電車もきちんと塗装、整備されていて、正規のダイヤから外れているものの、何か、イベントのようなものでもあると出馬に及ぶようである。

始発駅のサンクト・ガレンは古くから織物の町として栄え、修道院があることでも有名。ここを中心に幾つかの小私鉄が分岐しているが、一番面白いのはラックレールのSGAであろう。沿線は急勾配のアップダウンがつづくので、ラックでゴトゴトとゆっくり走るのはマニアにはこたえられない。スイスは山岳国だから、日本ではあり得ないような急勾配、急カーブの連続でまわりの美しい景色を眺めながらの旅となる。スイスは観光国で日本でも人気が高いが、こういう知られざるスイスを見られるのも「鉄」の特権であろう。
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スイスの電車の特徴として見られる屋根にもうけられた巨大な抵抗器は、日本ならさしずめ床下にぶら下げられるが、スイスの鉄道は一般的に床が低くてそのスペースがないので屋根に載せられるものと思われる。その方が放熱効果は高いのであろう。

この車両の前部下にかかれた記号から読みとれるもの:
A 1等車
B 2等車
D 手荷物車
e  電動車
h  狭軌(この場合メーターゲージである)
4/4 4軸車、4輪駆動
6 電車の番号だが、いまどき一桁のナンバーも珍しい。日本なら6両しかなくても1006とかいうナンバーがつくはず.
総重量 36.5トン
定員 48(この場合日本の通勤電車のように立ち席も定員に含めるかどうかわからないが、手荷物室も含め、一等室、トイレなどもあることを考えると48も座席があるとは考えにくい)

Rheingold/1984 [古い旅のアルバム]

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もう彼には印象に残っていないだろうなあ、とこの写真を見るにつけ思う。家族旅行として初めてヨーロッパを旅行したとき、下の息子はまだ小学生。こうやって無邪気に窓の外を眺めて何を考えているのだろうか。列車はTEE Rheingoldのミュンヘン編成のコンパート客車。コブレンツから乗車した列車はもう終着駅のミュンヘンに間もない。クラブカーを含む3両の短編成で、牽引機は112型、TEE塗装でシュツットガルトでつけ替えた機関車でひた走る。

最後のラインゴルト [古い旅のアルバム]

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思えばこれが私の最後のラインゴルトの旅になった。1985年YRFC(四日市レールファンクラブ)の友人とのスイスの私鉄を撮影する旅。私がすべて旅程を組み、ホテルの予約までした。事前にスイスの小私鉄や山岳鉄道をしらみつぶしに調べ、時刻表を読み、撮影マニアのために5万分の一の地図でいい撮影場所まで見当をつけて置いた。レーティシェ鉄道の駅はほとんど全部暗記をするくらい覚えた。この頃はまだ参加者全員現役で仕事を持っているので一週間の旅程で、いかに効率よく見るべきものを無駄なく見るか、と詳細に事前調査した上での旅である。

私は仕事抜きの海外観光旅行はほとんどホテルも予約しないしスケジュールもごくおおざっぱである。だが、この時ばかりはちがった。初めての海外旅行の人も何人かいたから、ずいぶん気を遣ったのである。おかげで充実した「鉄旅」になり、みなに感謝された。好評で2度、3度、とこれの続編が続くことになる。いまだに「また行きたい」という声もあるのだが、もう私には全員の面倒を見る体力はない。こちらが面倒見てもらいたいくらいである。同行したYRFCの人たちにとっては「初めての、そして最後のラインゴルト」の旅となった。映像は1985年7月14日SBBバーゼル駅、当時はこの駅がラインゴルトの終着駅となっていた。オレンジの帯のある塗装が多分最後であって、私たちはこの小窓の客車でスイス入りした。

私は写真撮影は下手だから記録はもっぱらベテランにまかせた。おかげでこの旅行の膨大な量の動画やスチール写真は四日市に山ほど残っている。

OeBB [古い旅のアルバム]

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2012年のメルクリン・カタログではじめて登場したOeBB車両。もとSBBで「赤い矢」と呼ばれたものがOeBBに移籍され、OeBBのシンボルカラーであるブルーに塗装されて、今も健在のようである。この写真はめずらしく撮影日付が分かっている。1985年7月19日。上の映像はSBBのOensingen駅から道路をひとつ隔てた Oensingen-Balsthal-Bahnのターミナル風景。

そもそも数キロしかないこんな盲腸線がなぜ存在するか。本来はスイスを縦断する大幹線になるはずで工事がすすめられたのだが、BLSの方が先に開通してしまったので、工事はBalsthalでストップ。途中に観光地があるわけでもない。とっくに廃線になってもおかしくないものが存在しているにはわけがある。終着駅Bahlstalは標準軌の古い車両を集めたミュージアムになっているのである。その規模はメーターゲージのBloney-Chambyのミュージアムに匹敵する。その割にはBloneyほどには知られていないようである。OeBBの特徴はこの路線で通常の営業運転を行いながらもミュージアム性格が強い。

Oensingenの駅を降りて駅前の道路を横断すると、すぐこの「青い矢」が待機していてくれた。こんなにすぐお目にかかれるとは思ってもいなかったので、私はすっかり舞い上がり、夢中で写真をたくさん撮り、そのままこの電車でBalsthalへ向かった。座席はほぼ満席に近く、見たところ土地に人ばかりのようである。生活路線としても機能している。この車両についての詳細は昨年のメルクリン・カタログの解説を参照していただきたい。

 Balsthalの駅を見るのは「鉄」にはこたえられない。いろいろな車両を毎日ローテーションを組んでこの路線を往復しているようである。このかわった食堂車はどこのものだか私には全然見当がつかない。どなたかおわかりの方いらっしゃいませんか。写真では見えないけれどこの後ろにはCIWLが数両留置されたいた。
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