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ラウンドアバウト [一般向け]

日本ではあまり聞きなれない言葉だが、道路でいう、いわゆるロータリー方式である。これまでも日本にも実質まったくなかったわけではないが、道路交通法に規定され、正式な交通規則として発足する。交差点で信号を無くし、スムースに行き先変更ができる長所がある。よく知られている例としてパリの凱旋門方式、といえばわかりやすいかもしれない。もっと大きなものではローマのコロッセウムもラウンドアバウトの巨大なものと言えるかもしれない。だがここには信号も存在する。

これがごく一般的にいたるところ存在するのが私の知る限りイギリスであろう。確かに信号はないし、便利なものではあるが、実際運転して見ると慣れるのに少し時間がかかる。ロータリーの環状道路は優先通行だから入るのは一旦停止して、車の合間を縫ってはいればいいのだが、入ってぐるぐる回っているうちに方向感覚を失い、どこで出るかが一瞬わからなくなり、思わずスピードを落としてキョロキョロしていると後ろの車にせっつかれる。もちろん標識はある。 それでもわからなくなるのだ。うっかり環状道路の内側にはいってしまうと、出るに出られなくなり、往生した、という話は凱旋門を始めて運転した日本人からは時折聞く。

日本でこの方式が発達しなかったのは土地が狭いせいもある。ラウンドアバウトを設置するにはいまの日本の大都会ではもうほぼ不可能であろう。東京でまず思いつくのは、外苑にある環状道路はラウンドアバウトにできるのではないか。一般には地方で土地の余裕のあるところから始まるのであろうが、慣れるのは時間とともに可能であろう。でもなんか、日本では渋滞が逆に激しくなるような気もする。

豪雨災害、避難計画の難しさ [一般向け]

広島がいま大変な目にあっているが、防災計画、避難指示の出し方などで、問題が多く指摘されている。1週間前にも、台風の直撃に会った、四日市市民30万人全員に100年に一回という大被害が予想される特別避難指示が出された。本当に30万人の住民が一斉に動き始めたら街は混乱を極めたであろう。だが避難指示にもかかわらず、大部分の住民は何もしなかった、というのが実態で、それは全国紙の新聞でも報道された。以下は四日市に住む友人にかけた見舞い電話で聞いた報告を含めた感想。

一口に四日市、といっても地域は広大で比較的安全な地域もあれば、そうでないところもある。それを無視して全員一斉避難という指示は、実情に沿わず、乱暴ではないか、という非難が後で出ているそうである。さいわい、これといった大きな被害は出ず、避難指示は空振りに終わってよかった。でもこれが東京という大都会に一斉避難指示が出たらどうなるだろう、と考えてみてもやはり同じ結果になるのでは、と思う。50階のマンションに住む人なら、自宅が一番安全、と考えて動かないだろうからである。

友人の住むところは平地で土砂災害の危険はないが、可能性として、よく氾濫して浸水騒ぎを起こす三滝川、という存在がある。彼はそれをまず考え、幸い自宅は強固な鉄骨構造の3階建てだから、上部階に必要なものを避難させたが、一階の駐車場にある買ったばかりの新車レクサスの被害が心配された。山間部での三滝川増水の状況を現地に住む知人とも連絡を取り、なりゆき次第ではデパートの高層駐車場に避難させることも考えたが、様子をみているとそれも必要なさそうなのでやめたらしい。

私が子供時代を過ごした「沖ノ島町」というところは、地名から察せられるとおり、低地帯にあり、三滝川はしょっちゅう氾濫し、床下浸水くらいよく経験した。二階の窓から道路を往き来するボートを眺めて過ごしたこともあった。しかし誰も逃げ出さなかった。いずれ水はひくからそれまでの辛抱、と思っていたようだ。これは経験から察するに現在の四日市中心部にも当てはまる。

被害を最小限にくいとどめるには、日頃自分の住んでいる土地の特性をよく知り、いざという時はどういう行動を取るかをよく考えておくことであろう。行政などというものをアテにしないことである。市が、国がなんとかしてくれる、と考えず、大雨災害はだいたいあらかじめ予想がつくのだから、自分の動物的嗅覚を最大限働かせて危ないところから遠ざかる以外に身を守る方法はなさそうである。

初対面の人をどう記憶するか [一般向け]

昔から、人の名前と顔を覚えるのが苦手なほうだが、年とともにそう傾向がますます強くなってきた。特に外国人の名前、ポーランド人の名前など特に長いし、発音もむつかしいし、億劫になるがこれではいかん、と思っている。昨日PTNAのコンクールG級決勝大会では、審査員の半数が外国人で、旧知の人もいるが初対面の方も多い。一日を一緒に過ごすから、何も喋らない、というわけにもいかない。皆さん立派な紳士なのだが、珍妙なこともときに起きる。しかし外国の生の最新情報も入るので言葉の壁はさておいて、とりあえず自己紹介かたがた当たって見る。

Aquiles del Vigne先生 白髪で相当の年齢の方とお見受けした。肩書を見るとオランダ・ロッテルダム音楽院、ザルツブルグモーツアルテウム教授、というから、当然ドイツ語は通じるもの、と思ってドイツ語で話しかけたが、全然通じない。やむなくまずい英語で会話を始めたが、相手も英語がすごく得意、というほうでもなさそう。聞けばモーツアルテウムでは25年夏期講習の講師を勤めている、というが、ドイツ語が全くできなくてよく講師が務まるもの、と少し呆れた。母国語はフレミッシュだそうである。

モーツアルテウムの夏期講座は世界中から若いピアニストがあつまるから、ドイツ語が全くできなくても英語だけでもいいのかもしれない。この夏は、困ったことだが肝心の地元の、オーストリア人、ドイツ人の参加者は一人もいない。大部分が中国、韓国系で、日本人はだいぶん減ってきた、という。イタリア、フランス系はいつも一定の参加者があるとのこと。ただ、彼によればこのところ参加者の質がだいぶん落ちているという。どこまで本当かわからないが、講師を勤めたある教授が、あまりのひどさに呆れ、もうこんなことやってられない、と途中で投げ出して帰ってしまった、という話も聞いた。

ついでに出た話として、ベルリンで初めてエボラ出血熱感染者が出た。欧州第一号である。日本でもトップニュースになっているかと帰宅して新聞、TV、ネットでみてもまったく一言も触れられていないのはなぜだろう。

Gilead Mishory先生 若手である。ゲルハルト・オピッツにミュンヘンで勉強した、という世代なのでいろいろ話は合った。フライブルグのHochschuleの教授で、イスラエルが母国だという。だとすればユダヤ人であろう。すぐ最近のイスラエルの話題になった。首都のテル・アヴィブの状況については、自分はもちろん、外国人の出入国も何も問題はなく、安全で面白いところだから是非遊びにきて、という。フランクフルトからたった4時間だよ、と付け加えた。フランクフルトから4時間かあ、結構遠いなあ。もちろん、観光地としてイスラエルは面白かろう。私もいま一番いってみたい国である。しかし最近テル・アヴィブでも爆弾テロがあったというニュースを新聞でも読んだが本当のところどうなんだろう。

議員のヤジ [一般向け]

空いた口がふさがらないとはこのことをいうのだろうか。都議会であれ、国会であれ、いや、ごく普通のありふれた会社や教授会などの会議であれ、発言があるなら議長の発言を求めた上でいうべきはいう、というのはごく普通の会議のルールだと思っていたし、私もそうしてきた。

そのルールは国会や都議会では許される、ということは信じ難いことで、正式な発言以外は禁止し、違反したものはそれなりの処分があるべきであろう。こういう国民から選ばれた議員はいったんなってしまえばそういう責任感というものをすっかり忘れてしまうものらしい。まして今回のヤジは、まともな人間として論外だが、それでなくても最低限、選ばれたものの責任としてそのくらいのルールがないこと自体不思議。人間だから何を思うのも勝手だが、これを言ったらどうなるか、ということさえ知恵が回らないようでは議員の資格がない。

と、ここまでは誰でもそう思うだろうし、ジャーナリズムの論調もおおむねそうだけれど、私が少し距離をおいて冷静にみるとこの現象ははからずも日本人の平均的な「民度」を露呈してしまったようである。自分がかりに議員になったとしたら、それはないとも言い切れないじゃないか、と心の片隅でつぶやく自分にも気がつくのである。議員だけが特別高尚な人間、と思う方が多分人が良すぎる。要するに彼らも我々と同じ日本人で、バッジをつけたからと言って急に人間が高尚になるわけないことくらい、当たり前といえば当たり前なのだ。

35年も使った空調機 [一般向け]

「おそらく最長記録ものではないでしょうか」と業者が感心していた。業務用とはいえ、この家を建てた時以来使っている器具では最も古い。それが、この冬の寒さのせいか、不調になったので見てもらった結果である。修理部品などはもうない。当時コンパクトな業務用空調機を組み込んで内装をしたので、三菱電機本社に問い合わせたら、その製品はもうとっくに製造中止で発売しておりません、このサイズのものはもうないです、という。サイズがこれより大きいと内装までやりかえなければならないので大ごとになる。これには困った。

ネットで調べたら民間業者で、35年前のと同じサイズのものを扱っている会社があることがわかった。早速注文しようとよくみると器具もずいぶん格安で売られていることもわかった。どういう流通システムになっているのかわからないが、本社で「もう製造中止」といっているものを、下請け業者はたくさん品揃えしている。全く知らない業者だったが、依頼して見たらなかなか良心的でいい工事をしてくれたので、もう一つの20年ものの空調機が壊れたらまたここに頼むつもりでいる。「おはよう産業」という会社で電話の応対もしっかりしている。この会社は器具を売る、というより、電気屋で売った器具の備え付け工事を主な仕事としているらしい。

新しい空調機は音が実に静かで、入っているのやらいないのやらわからないくらい、風も静かでいつの間にかじんわり部屋が温まっている、というふうでこんないい製品がどうして製造中止になったのだろうと不思議に思う。

例外の多すぎる健康法 [一般向け]

新聞の記事で英医学雑誌、ランセットに発表された論文として、7つの項目を減らせれば、ボケ患者を大幅に減らせる、というのががあった。いわく:

1低い教育水準
2運動不足
3喫煙
4高血圧
5うつ状態
6糖尿病
7肥満

これをみると何もボケに限らず、何の病気にも当てはまりそうなもので、取り立てて目新しいものでもない。しかし私の見渡したところ、同年輩の友人で、上の項目にどれひとつ当てはまらない、健康志向ひとすじを目指していた人が気の毒なことに実はかなり重症の認知症にある。

またこの逆に、二つくらいは当てはまるが、それ以外はどれも健康に悪いことばかり続けている人でも、ぴんしゃんしているのもまたいる。どれも身近ですぐ思い当たる人たちばかりなのだが。。。これらは、例外だ、と医者からは多分言われそうだが、私の身近なひとたちを見ての実感からすれば、どのやり方も健康法ばかりは決定的なものはなく、気をつけた方がいくらかまし、程度にとどまる。それにしても例外が多すぎやしないか。

神様は不公平なものである。もうだいぶん以前から、すごく努力を要するような健康法は私はなにひとつしていない。もう親父の死んだ年までは生きたから「十分もとはとった」という意識が何処かにあるから無理に長生きをする必要もない、と思っているからでもある。健康法というものがあるとすれば、妻が毎朝作ってくれる「これだけ飲めば一日野菜は何も食べなくてもいいくらいの大量の新鮮ジュース」くらいなもので、これまで元気でこれた原因はこれ以外思いつかない。これはひとえに妻に感謝すべきものだが、この健康法さえ限界は当然あり、しかも、今のところ私が認知症になっていないのは「野菜ジュース」が原因、とする科学的根拠は何もない。

みのもんた [一般向け]

世間のことに疎いわたしもこれだけあらゆる週刊誌に書かれている「みのもんた」事件、目にとまらない訳はない。素朴な疑問として、みの自身が何か悪いことをしでかしたのか、ということである。もし、彼が何億稼ごうが、正当な仕事の報酬として稼いだのであれば、稼いだ金を何に使おうが誰もかれに何も言う権利はない。豪邸を持とうが、高級外車を乗り回そうがそれは彼の才覚と努力でそうなったからだ。

問題は彼の息子である。私もよくはわからないが、もしもう40何歳になって妻子もある、ということであれば、独立した人格であり、責任を取るべきは息子本人一人のはずである。親はもうこの年になれば関係がない。私は彼が出演する番組を見ている訳ではないが、40以上にもなった息子の不祥事で、なぜ親が責任を取って番組まで降りなければならないのか。理屈として通らないではないか。この種の醜聞になると、世間は息子がこの年になっても親の育てかたにまで責任が及ぶ、といわんばかりである。これは日本でしか見られない不思議な現象で、親と子はこの年になれば別人格だ、ということを、誰も理解しない。いや、わかっていても、醜聞の種に喜ぶマスコミが止められない、もしくはただ、雑誌が売れるから、というだけの理由ならばもはやなにをかいわんやである。

親の保護下にあるうちならともかく、40歳以上にもなった息子、もしくは娘の行状にまで責任を取らされる、というのが正しいあり方だとするなら、人は怖くて子供など持てない。誰でもいつ自分がそういう立場に立たされるかわからない。有名人でもない私にとってもこれは人ごとではない。子供が独立したあとはすべては子供自身の責任になる、という単純なことが日本ではどうして通じないのであろうか。


敗戦記念日に想う [一般向け]

茨木のり子という詩人をはじめて知ったのは、中田喜直作曲の歌曲「わたしがいちばんきれいだったとき」を演奏して以来のことである。茨木のり子の詩は反戦の詩、ではなく一人の女性がごく素直に自分の感情を文字にした、誰にもわかりやすく、難渋な思想のないところがいい。ちなみに作曲者の中田喜直氏自身も特攻隊の生き残りである。この詩に大きな霊感を得て作曲したであろう名品である。彼の戦争観も歌詞のないピアノ曲にも生きている。

茨木の詩の多くは戦争がいかに悲惨なものかを、死んだ人のことも、生き残った自分にも声高にではなく、ごく普通の文体でさらっと描かれている。今朝の毎日新聞の「余録」にも彼女の詩が引用されている。私はこれに深く共感するものであり、お読みになった方も多いとおもうが、あえて当ブログにも引用したい。

茨木のり子がフィリピンで兵士の頭蓋骨を見つけ、こう記した。

生前/この頭を/かけがえなく いとおしいものとして/掻き抱いた女が きっと居たに違いない/小さなこめかみのひよめきを/じっと視ていたのはどんな母/もしかしてそれがわたしだったら。。。

昨今の日本の「自分の領土は断固として守る」という勇ましいフレーズが第二次世界大戦中に喧伝されたフレーズと重なってみえる。私はたかが一個の島のために戦争になり、そのために誰かが死ぬ羽目になるのはまっぴら。どうしても守りたければ、その人だけが行けばいい。私はいやだ。私の知る、もしくは知らない人をそこへ送るのもいやだ。大きな戦争が起こるにはそれなりの背景もあるが、きっかけはほんのちょっとしたことなのである。あえて「敗戦」の記念の日にいいたい。

アメリカの電力事情 [一般向け]

昨晩のNHKのアメリカの原発をテーマとした番組、なかなか見応えがあった。面白かったのはあらゆる電力を入札制にして、市場原理を導入した結果、原発は他の電力、とくにシェールガスの台頭で、原発の廃棄コストまで考えると、とても競争に太刀打ちできないことがわかってきて、原発の廃炉を余儀無くされているケースが激増している、という内容である。

どうやら原発は安全性ばかりでなく、コストの面でも太刀打ちできない時代になりつつあるようだ。一方日本では自民党が圧勝したこともあって、脱原発派は苦戦をしいられているが、原発推進派はは廃炉後の廃棄物のことは考えていず(知ってはいても自分が現役の間さえどうにかなればあとは野となれ山となれ、と思っているらしい)原発再開に熱心だが、今回ばかりはどの原発もそう簡単には再開できないと思うし、原発がないと日本のエネルギーは壊滅的になる、といった脅しも実際はそうでもないことが実証されつつある。


番組では現在のアメリカの原発事情が何年かあとの日本の姿に見える、と締めくくっていたが、アメリカは広大な砂漠があるおかげで未だしも廃棄物処理が可能だが、日本にはそんな場所はない。国土の広大なアメリカでさえもそれが年々困難になりつつある、とも報じていた。廃棄物処理費用までトータルに考えなければ公平なコスト競争のテーブルにはのらない。事故が起こらなくてさえそうだから、福島単独で事故でこれまでにかかった費用、発電で得た収益を計算したものを一覧表にして会計報告のように一度私たちに公表して欲しい。そしてこれから完全廃炉までかかり続けるであろうコストも。

その収支をみればたぶん誰一人原発存続は望まないと思われる。

英語早教育のおろかさ [一般向け]

「英語」を「音楽」、とくに私の場合,「ピアノ」に置き換えてみるとわかりやすい。将来、ピアニスト,もしくはピアノ教師を目指す人が、学校の音楽の授業を受けただけでピアニストになれる、と考える人は誰もいない。当たり前だからだ。じゃあ日本のピアニストが世界のレベルで劣るから、音楽の授業にもっと力を入れ,毎週小学校から6時間の授業を音楽に当てようと考えたとする。日本人の「音楽力」は向上するだろうか。やはりこれも誰が見ても「否」である。

音楽のような、そう、あえて特殊能力といおう。ピアノを本当の意味でモノにしようと思ったら、幼稚園に上がる以前から特別な教育を施さなければダメである。ピアノであれば毎日数時間、場合によっては10時間以上もの訓練を必要とする。そのように特訓をすれば誰でもピアニストになれるか、といえば、それでも全員がなれるわけではなく、まして一流といわれるようになるにはごく一部の人しか目的を達成できないという,過酷な世界である。

英語を使えるようにしようと本気で思う人は学校教育には頼れないし,頼ろうとも思わない。ピアノほどの特殊能力ではないにしても、相当の覚悟が必要である。そもそも学校の授業だけで「何かがものになる」ものなどなに一つない。英語に不自由のない社会にする一番いい方法は公用語はすべて英語にする,と法令で決めることであろう。一歩家を出たら、ラーメンを食うのも,電車に乗るのも、役所で住民登録をするのもすべて英語以外まかりならん。日本語を使ったら罰金刑を科す。こうする以外「普通の人」も英語ができるようにはならない。(その必要性が希薄なところが日本人にとって幸福だと私は思うのだが)

ポーランドがロシアに占領されていた頃の状況がこれに近い。ポーランド語の公の場での使用が占領軍であるロシアによって禁止されたのである。これはポーランド人のアイデンティティを否定するものでポーランド人はひどい目にあったが、それでもロシア語は使えるようにはなった。要するに「英語を使わなければ生活がなりたたない」状況におかれなければ上達はしないのである。それはいまの日本では無理である。ということは、「英語を本当に切実に」必要とする人だけがピアニストになるのと同じように、語学の特別の訓練を受ければいいのだ。でも英語をいちおう使いこなせる程度になるのはピアニストになる訓練よりは楽だと思いますよ。なにしろ、アメリカやイギリスでは「普通の人」がさしたる努力もせず、みんな英語ができるのだから。「小学生から英語を」といっている人はよほどアタマが悪い。

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