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グラスハーモニカ [音楽全般]

 さすがにこんな楽器のコンサートに来る物好きなピアニストはいない。おそらく20年くらい前であったかと思うが、東京文化会館小ホールでアメリカ人で一晩この楽器のコンサートを行った人がいた。ガラスの縁に指を軽くつけて回転させて音を出す楽器、これも発音の原理は同じであってもさまざまなシステムがあるようだ。

  私が聴いた(見た?)のは薄いコップをたくさん並べ、それぞれ大きさも違えば中にはいっている液体の分量も違う、全体の大きさはおよそ大型のマリンバより少し大型めのもので立って演奏をする。この演奏家は名前は覚えていないけれど、このたぐいの楽器のなかでも独特のものでご本人は「グラス・ハープ」と名付けていた。人間の指は10本あるから理屈としては10個の音が同時に出せるはずであるけれど実際はコップの直径の大きさが必要であるから最大限4個までが限度のようでモーツアルトの曲もそれに沿って書かれている。

 当然ながら速いパッセージにははなはだ不向きであるがモーツアルトの曲はテンポはアダージョではあるものの16音符でしかも3度音程も同時に鳴らす。かなりな技術が必要であろう。そもそもレパートリーが極端に少ない。レクチャーも含めて1時間程度のコンサートだったように思う。楽器の運搬が大変で、横濱の税関を通してもらうのに大変苦労した、という解説が印象に残っている。

 「ルチア」で使われるのは3幕の中間部では11小節の単音のソロ、とあと少しのルチアの歌うオブリガートだから全部で20数個程度の音しか出さないが効果は絶大である。日本人でこの珍品を手がけている人がいたらぜひ会ってみたい、と思う。

南相木日記(2) [音楽全般]

 毎年、その時になってあわてるのだが、今度はそうならないですむように少し前から準備しておこうと思って資料を南相木まで持参してきた。洗足学園大学院のアンサンブルのフェスト、今年もあるのかどうか知らないけれど、今度はブラームスの4番の終楽章、例のパッサカーリャを2台ピアノ8手連弾に編曲をしておこうというわけである。

 まあこれは探せばすでに楽譜はあるかも知れないけれど、やはり自分の納得のいくような編曲がしたいと思うのだ。ブラームスには「ハイドン変奏曲」のように、ピアノと、オケ版と両方ヴァージョンの曲があるし、ピアノ5重奏も2台ピアノ版がある。このような性格の作曲家だからこの曲も8手連弾も違和感はあまりないはずで、とくにこの楽章はベートーヴェンのハ短調の32の変奏曲をモデルにしたような所があるからピアニストにはなじみやすい。

 この曲はベートーヴェンの創作主題をほとんどそのまま借りてきたようなものなので、ブラームスはテーマのソプラノ主題を上声、中声、バス、とさまざまに置いてベートーヴェンより自由に扱っている。構成は「32の変奏曲」と似たところがあり、変奏が30曲であることをのぞけば調性配置などそっくり。「30曲」の変奏はもしかしたらバッハの「ゴルトベルク」からのアイデアかも。ドイツ音楽の伝統が脈々と受け継がれた傑作である。

魔法使いの弟子 [音楽全般]

 19世紀末に活躍したのフランスの作曲家ポール・デュカ(デュカス、とも)の作曲したゲーテによる交響的スケルツォ「魔法使いの弟子」(1897)という傑作がある。魔法使いが箒に水を運ばせる呪文を弟子に教えたのだが、その弟子は水運びを止めさせる呪文までは教わっていなかった。師匠のいない間に、弟子は箒に水を運ばせる呪文をかけて運ばせることが出来たのはいいが、いざ止める段になるとどうやってみても水運びが止まらず、家中が水浸しになってお手上げになる、というユーモラスな物語の筋にデュカスが音楽をつけたものだ。「スケルツォ」という曲名が曲の性格を端的に物語っている。

 この物語はゲーテの創作ではないが、古くからある民話をもとに脚色したものらしい。古来、水は貴重なものであったからいい水が楽に調達できたらどんなにいいだろうか、とは誰しも考えたことからこんな話が生まれたのであろう。

 福島原発のいまの流れをTVで見るたび、私はこの音楽を思い出す。20世紀、人間は原子力、というほとんど無限に近い夢のエネルギーを手にしたが、これが今回のごとくいったん暴れだしたらもう手のほどこしようがない。暴れだしたときどう止めさせるか、ということまでは人類は学んでいなかったようである。20世紀の魔法の呪文は魔法使いが家に戻ってきてやめさせる呪文を唱えてくれればいいのだが、これは望み薄である。魔法使いの「弟子」の愚かさは現代人にも通じるというにはあまりにも深刻な教訓であったと思わざるを得ない。

音楽構造の研究 [音楽全般]

諸井三郎著「音楽構造の研究」

 この本は市販されたのかどうかわからない。諸井三郎先生が逝去されたあと、遺稿を整理していたら3巻にも及ぶ膨大な原稿が発見され、これを埋もれさせるにはいかにも惜しい、とその弟子にあたる人たちが中心になり、出版社は音楽之友社だが、おそらくは洗足学園大学がこの費用を全額負担して完成させたのであろう。

 私は洗足学園から寄贈を受けたのだが、いずれ読もうと思っているうちに20年もの年月が経ってしまったことを悔やんでいる。グレゴリオ聖歌からブーレーズにいたる、音楽構造を巨大な視点と、一方詳細な視点とを歴史的に俯瞰しながら音楽の構造をみつめる実に驚嘆すべき集大成である。といって決して理屈一点張りの本ではない。音楽の美しさ、すばらしさはどこから来るかを追究する哲学がある。一言ではとても言えないがこれだけの研究書が日本でこれまであっただろうか。実をいうと私は数年前からぼつぼつ読み始めているのだがとても読み飛ばすことのできる代物ではない。

 いま読んでいるところはスウェーリンクのファンタジアとフレスコバルディのカンツォーナの比較の部分である。 たとえばファンタジアがいずれフーガに発展し、カンツォーナがのちにソナタに発展する、という視点は実に示唆に富んでいる。3巻目のシェーンベルクの12音技法の分析(批判も含めて)もなるほど、と思わせる。この著書、気楽に読めるものではないだけに、果たしてどれだけの人がまじめに読んだだろうか。(札幌)



オペラ連盟と天下り役人 [音楽全般]

 今日のある会議での席上、新聞沙汰にもなったオペラ連盟の水増し請求で問題となり、理事の責任問題にまでなった一部始終の報告を受けた。幸い、私の関係している団体の範囲ではそういう不祥事はこれまで起きていないが、ひとごとではないな、と思って報告を聞いていた。

 話は少しややこしく、こみ入っているが、日本には二期会や藤原歌劇団という法人格のオペラ団体がいくつかあり、それら全部のオペラ団体を統括するのが「オペラ連盟」で、各オペラ団体から理事が出ている。その事務局長として、文部科学省から天下りをした某という人物がいるのだ。この人物、なかなかやり手らしくて、文化庁からオペラ団体のへ補助金として年間何億だかの金を受け取っている。ところがこの何年かの間、水増し請求をして不正に補助金を受け取っていたのが発覚した。

 これを音楽関係者は見抜けなかった。それだけではなく、毎年の会計監査でも発覚しなかったのだ。結果、当然事務局長はクビになり、理事もその責任を取り、不正請求として得た金額のをそれぞれ負担して何年かの間に文化庁に返還する、という沙汰になった。そしてこれからがややこしい。ある理事は責任を取って応分の金額を文化庁に支払うが、事務局長も含め、ある理事は責任も認めず、支払う意志もない、としている。

 ところが支払わない理事にはこれという罰則がない。つまり正直に支払った理事はバカをみる、ということなのだ。じゃあ支払われなくなった金は誰が負担する、ということになると文化庁もどうしていいかわからない。あろうことか、天下った事務局長は元文化庁役人だから、任命した監督官庁の責任問題にもなってきて、文化庁としても困った、困った、なのである。

 さらにもっと不思議なのは、新聞紙上では今後オペラ団体には少なくとも罰則として5年間は補助をしない、ということになっているが、それでは5年間は金がないのでオペラ公演は出来ないか、といえばそうではなく、「オペラ連盟」には補助は出ないが、各オペラ団体には引き続き補助は出るので5年間日本ではオペラ公演が出来ない、という事態にはならないのだそうだ。もうワッケワカラン。

出来損なった傑作 [音楽全般]

 ブラームスの作品76の2のカプリッチオや第4シンフォニーのスケルツォなどの諧謔精神を持った作品は古来毀誉褒貶があるが、それを出来が悪い、とおおっぴらにいうと、何を馬鹿なことをいうか、どれもブラームスの傑作、おまえがわかってないだけなのだ、の大合唱にかき消されてそれきりになってしまう。もとより日本ではなおさらのこと。

 でも私は思うのだ。ミューズの女神もときにはミスをすることもあるのではないか、と。べつにブラームスがわるい、というのではないが、ミューズの女神があのメロディを与えるべき作曲家をもしかすると間違えたのかもしれないのだ。こういうメロディはたぶんブラームスにははなはだ不向きで、これをビゼ、ドリーブ、サン・サーンスのような作曲家のもとに女神がほほえんで舞い降りたならばきっと素晴らしい歴史に残る大傑作が残ったかもしれないのに惜しいことをした、とも思う。やはりこれは出来損なった傑作といえないか。

 ちなみにドリーブ自身は「おれは対位法のことはぜんぜんわからん」とうそぶいていたそうだが、そういえばこのようなメロディはあまり対位法向きではなさそうである。それでも音楽学校の作曲科の先生はつとまっていたようだ。

            (ドリーブの歌劇「ラクメ」を聴きながら)

 
 

豊田さん一家と私 [音楽全般]

 モッちゃん、こと豊田元子さんから「ベルリンから持ってきたブルスト(ソーセージ)があるから食べにこない?」と誘いの電話がかかり、赤坂のマンションを訪ねた。彼女は芸大時代私と同級生でピアニスト、先日「パリ最後のショパンの演奏会」で室内オーケストラのコンサートマスターをつとめてくれた豊田弓乃氏のお母さんでもある。彼女は息子のリサイタル、演奏連盟のコンサートをみるためと、秋に予定している「最後になるかも」という自分自身のリサイタルの下準備のために帰国したらしい。

 元子さんのご主人はRIAS(ベルリン放送管弦楽団)のコンサートマスターをつとめた名ヴァイオリニスト、豊田耕児氏である。先日弓乃さんが室内オーケストラのコンマスをつとめてくれることになるとは、実は私も練習当日まで知らされていなかった。奇遇である。

 豊田耕児さんはスズキ・メソードで知られる才能教育の鈴木慎一氏の一番弟子であり、昔、私の父も才能教育のやり方に共鳴し、うちの一部屋をヴァイオリンのレッスンの為に提供していたこともあった。そこで私も少しばかりヴァイオリンをかじったが、残念ながらものにならなかった。スズキ・メソードの才能教育からは優れたヴァイオリニストをたくさん輩出したが、私は「楽譜を読まないで音から入る」という教育法に少し懐疑的であったことから才能教育からは距離を置いていた。モッちゃん、もしくは、弓乃さんがそれについてどういう見解を持っているかについても興味があったが、ブルストをごちそうになりながら「いやあ、ひさしぶりだねえ」とかいっているうちに約束の1時間はあっという間に過ぎ、またの機会に、とあいなった。

バッハの「数の象徴」問題私見 [音楽全般]

 バッハの音楽でしばしば問題になる「数の象徴」問題について。まず、バッハが明らかに数を意識したであろう、と「思われる」箇所は実際いくつか存在する。有名な例では「マタイ受難曲」の最後の晩餐の場面で、「12人の弟子たちの中で一人私を裏切るものがいる」とイエスの言葉に、弟子たちが口々に「それは私ですか?」とイエスを問いつめる。「Bin ich's?」のMotivの掛け合いの合唱が11回出現する。つまりのちに裏切ることになるユダだけが沈黙したので、11回しか掛け合いがないのだ、という説。これはまあ「ある程度の」説得力はあろう。ただし、11という数にはもう一つ意味があって、「1」という数字を縦横にすれば十字架を暗示する。

数の論理で、バッハの音楽の持つ宗教的意味合いを何もかも説明しよう、という20世紀末の試みは明らかに行きすぎで、これはマニアックな楽曲分析と同様、害をもたらす。

「6声のリチェルカーレ」では主題が11回しか出現しない。各声部に2回づつ、合計12回主題を提示する、という音楽本来のバランスに欠ける。「フーガの技法」では第1番が主題が11個の音からなり、11回のテーマを提示する。4声のフーガだから各声部に3回づつテーマが平等に出現するには12回でなければならない。これには何か意味があるかも知れないし、偶然かも知れない。当然なことではあるが、バッハは自然な音楽の流れに逆らっても音符に数の意味を込めることに専念した、と考えるのは音楽家の立場としてとうてい認めがたい。バッハは神学も深く勉強したが何より音楽家なのである。分析も、数の象徴もほどほどところで楽しめばいいのである。多分バッハもそうやって音楽作りを楽しんだに違いないから。

そこへ行くと「音型の象徴」は音楽修辞学という長い伝統に支えられているだけにずっと説得力がある。この問題はいずれブログで考察しようと思うが、この論争になると私は学者にはとうてい太刀打ちできない。

指揮棒 [音楽全般]

 指揮者としては私は素人に近い。がこれまで何度か指揮者としての経験はある。指揮に当たってはこれまで一度も指揮棒を使ったことがない。指揮棒が必要なほど大編成のものを振ったことがないのも一つの理由だが、一つには指揮法を習った渡邊暁雄先生の影響が大きい。渡邊先生も晩年は指揮棒を使われたようだが、講義のはじめにいわれたことが印象に残っている。「指揮棒を持つか、持たないかは好みにもよるが、概して大編成や広いホールでは指揮棒を使った方があわせはうまく行く。ただ私が指揮棒を持たないのは、情けない理由なのだけれど、あがってしまうと棒の先が震えてしまうのでみっともない」。渡邊先生ほどのベテランでもそういうことがあるのか、と感じ入ったが、これは渡邊先生一流の照れ隠しだったのかも知れない、といまでは思う。

 でも今度は会場も広いので、生まれて初めて指揮棒を使うことにして、買ってみた。指揮棒は1500円からせいぜい5000円くらいまでなので、指揮者というものは元手のかからない職業だなあ、と思った。ただし、スコアが完全にいつも頭に入っていれば、の話だが。

 これもただ買えばそれで終わり、というものでもない。これまで指揮棒は持ったことがないからそれなりに慣れなければならないからである。持ち慣れないものはやはり持ち方から勉強しなければならないし、第一、格好がつかない。まあこれも私一流のやり方で習うより慣れろ、のやり方で行くつもり。でも見ていると世の中、ベテランか、ヘボかはともかく、指揮棒を持つ人の方が圧倒的に多いようである。やはりそれなりの効用はあるものと見える。

ギター大合奏 [音楽全般]

 ギターという楽器はピアノと似たところがあって、基本的にはソロ楽器なのである。もちろん、歌の伴奏、各種のアンサンブル、ギターを独奏楽器としたコンチェルトなどもあって、その用いられ方はずいぶん幅が広い。世界規模で見るなら、ピアノよりはるかにポピュラリティのある楽器といってよかろう。すそ野はピアノよりはるかに広いに違いない。だから大所帯の音楽教室でこんな会が経営上必要となるのもそれなりに理解できる。ただ、音量の点でいうと大ホール向きの楽器ではない。

 これを2500人の大ホールで何とかしようとなると大変だなあ、一体どうやるのかなあ、という興味も半分、知人からそう乗り気でもないが誘われたのが半分、ということもあって出かけてみた。ミューザ川崎大ホールである。基本的にクラシック畑のギター教室の一大イベントだから、そうとんでもないものは聞かされないだろう、と考えたこともある。

 私のことだから、この大人数のギターをどういうネタ(原曲)で、どう料理、編曲するか、どう聞かせるか、ということに興味の中心があったことはもちろんである。ギター以外にもコンバス、チェロ。フルート、打楽器などの「鳴り物入り」編曲でそれなりの効果は上げていたと思うが、やはりギターは一人で演奏してこそ、その繊細さがフルに発揮されるものだから、大勢になれば大味にならざるを得ない。うかつなことだが、今日はじめてそういえばギターとコンバスの調弦が全く同じ音程であることを発見した。当然、編曲はホ調系が中心となる。

 一番おもしろかったのはやはりバラライカと標準ギターの2重奏のファリャであり、こういうところでこそギターの真面目(しんめんぼく)が発揮される。その他の編曲ものに関して言えば私なりの意見もあるが、まあこんなもんなのかな、という感想で終わる。最後にひとこと。

 やはりギターはソロ楽器なのだ。

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