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カンタータの通奏低音 [音楽全般]

札幌のある先生から電話があって、学内のコンサートでバッハのカンタータの202番(世俗カンタータ)やる計画があるが、先生、通奏低音弾いてくれませんか、という依頼があった。カンタータでチェンバロ弾くの久し振りだから面白かろう、と思って引き受けることにした。

カンタータの通奏低音を弾くのは面白い。基本的に伴奏の役割なのだが、ただ伴奏を楽譜通りに弾くのと違っていろいろ工夫の余地があるからだ。まず楽譜だが、左手のバスだけが書いてあって、それに中間の和音を即興で充填しながら弾くのだが、数字付き低音として書かれている数字はほとんど訳に立たない。実際は歌のパートに書かれている音と同じだし、バッハの和声進行はだいたいパターンが決まっているから、和声に関しては工夫の余地があまりなく、どんな音型で、どのくらいの厚みで弾くか、だけのように見える。

しかし、アリアの前奏、間奏、後奏についてメロディが書かれていないことがほとんどだから、これはバスの上にどんな面白いメロディを自分で作って乗せられるか、という創作的面白さがある。なかでも202番のカンタータの3曲目のアリアはやりがいがある。左手は8/12の16部音符の無機質な早いパッセージがあるだけなので、相当な経験がないとこのバスにふさわしい右手をつけるのはむつかしい。バッハ特有の、通常の和声学では禁じている対斜や、陰伏五度や八度でもテンポが早くてほとんど気にならないところでは使っているなど、独特のクセも把握していなければならない。左手だけをただ弾くだけでもやさしくはないのだ。

これはさすがに私も即興ではできそうにないから、まる一日かかって右手用の楽譜を書き込んだ。次の日、その次の日も練習しながら不完全なところを何箇所も訂正し、どうにかバッハに叱られない程度には仕上がったと思う。ピアノの上は消しゴムのクズだらけになった。通奏低音奏者は時に指揮を兼ねる役割もあるので、自分のパートだけ弾けば終わり、というわけにいかない。どの部分をチェロやコンバスを重複させるか、ということもあらかじめある程度考慮しておき、会場の大きさ、演奏者の技量、テンポの取り方によって変える必要があり、いろいろのケースを想定しておかないと練習の能率に大きく影響する。

ルトスワフスキ弦楽四重奏団 [音楽全般]

ルトスワフスキ、といえば「2台のピアノのためのパガニーニ変奏曲」くらいしか日本では知られていない。20世紀ポーランドを代表する作曲家で、ピアノ曲はほとんどなく、だいたいが大オーケストラのための曲が多い、おまけに演奏もむつかしい、聞くのもむつかしい、とあってはあまり知られないのも止むを得ないであろう。

曲目が面白いので聞いてみる気になった。ルトスワフスキ、ショスタコヴィッチ、マルコヴィッチ(今日の第二ヴァイオリンをつとめた)シマノフスキ、の弦楽四重奏曲となかなか聞き応えのあるプログラムで、最初にインタビューなどもあったせいで、終演は9時半をまわっていた。正直にいうとルトスワフスキの弦楽四重奏は一番「現代音楽風」であって曲として優れているのかどうか、私にはわからないが、やはりあまり一般に弾かれないのもわかる気がする。最後のシマノフスキが幻想的で叙情的な内容で私には一番楽しめた。

それにしてもこういうコンサートになるとポーランド大使館が全面的にバックアップし、宣伝、広報活動に務めている。そのせいもあって、こんな馴染みにくいプログラムなのに、紀尾井ホールは8割がたは埋まっていた。ポーランド人の観客が多いのは当然としても、こんな地味な活動にもポーランドという国が文化をささえる、という姿勢が明確に見える。音楽に限らず、国の文化をこれほど大切に考える国はヨーロッパの他の国と比較しても群を抜いているのではないか、と羨ましく感じたし、その文化活動もそれぞれの価値をきちんと把握した上でのことだから、何でも自国のものだからいい、というナショナリズムからきたものではないこともわかる。

ついでにポーランドの3大国際コンクールとは、ピアノのショパンコンクール、ヴァイオリンのヴィニアフスキコンクール、チェロのルトスワフスキコンクールの三つの柱がある、という認識も持った。

ウーヴェ・ハイルマンさん [音楽全般]

鹿児島のあるオーディションの審査で数年来の知己を得ているStuttgart出身の声楽家。世界的な指揮者のもとでオラトリオの分野などでずいぶん活躍をした人だが事情があって日本人の奥さんと鹿児島に暮らして居る。非常にパッショネートな人で、私と教会音楽の話、特にバッハの話になると際限がない。今年はマタイ受難曲を鹿児島初演したのだそうである。日本には教会音楽の伝統がないのだから仕方がないとはいうもののこの知識なくしてバッハは理解できない、という点で意見は一致し、オーディションのあとの講評でも二人で掛け合い漫才みたいに飛び入りでやりあった。(これはもちろん日本語で)

彼は「なぜピアニストがそんなことに興味を持つか」ということすら意に介さない。こういうコスモポリタンな人は自分に興味を持つ話し相手は誰でもいいのである。日本でこういう話ができる人に久しぶりに出会えたことがなにより嬉しいらしい。「私も教会カンタータやヨハネ受難曲くらいは指揮したことはある」といったら目を輝かせて「来年も「マタイ」をやるつもりだからぜひ指揮をするか、通奏低音のチェンバロを弾いて欲しい」というので「私がもう十年若ければ他の仕事を全部放り出してもやりたいが、もう数字付き低音の細かい字も見えないほど目が老化してきたしその他の事情もあってむつかしい」と答えたらとても残念そうな顔をした。私も心底残念に思う。人の出会いは難しい。この出会いがもう十年早ければ、もしかしたら私も「マタイ」の演奏にも関われたかもしれない。が、あの3時間半もかかる曲にはもういまや精神力が持ちそうにない。でも鹿児島にゆく楽しみの一つはハイルマンさんと話ができることにある。(鹿児島)

吉田秀和先生を偲ぶ [音楽全般]

享年98才だそうである。ふだん滅多にお会いすることはないが、戦後日本を率いてこられた評論家として長く記憶にとどめるべき巨人であろう。日本戦後音楽史の節目節目で、リーダーシップを発揮されてきた。新しい音楽教育を目指した桐朋学園大学の立ち上げ、新しい現代の音楽を紹介する、軽井沢の二十世紀音楽研究所、本業である評論の分野では、音楽批評のあり方を海外の人たちとの交流も含め、音楽評論という分野を日本で確立した最初の人であろう。

桐朋学園に関しては私はあまり関係がなかったが、でも、私の人生の節目節目で吉田先生にはお世話になっている、というより、先生は音楽へ進む若者にとっての将来を指し示す指針的存在でもあった。
始めてお会いしたのはまだ私が20歳ごろのこと。下宿生活をしていた私の部屋にお出でになり、音楽雑誌の取材を受けたのである。いわば吉田先生から取材を受けたわけだ。先生は当時すでに押しに押されぬ有名な存在だったから、さすがおしゃべりの私も相当ビビった。何をしゃべったかは覚えていない。

その後数年して当時の若い気鋭の作曲家、柴田南雄、入野義郎、黛敏郎、諸井誠などと新しい音楽を演奏し、紹介する、という二十世紀音楽研究所を立ち上げられ、ウエーベルン、シュトックハウゼン、ブーレーズ、(当時はバルトークやシェーンベルクもその範疇にあった。メシアンの名前を聞いたのも始めてであった)など、新しい曲が演奏紹介され、毎年夏の軽井沢の音楽祭は名物となった。立ち上がってから2年ぐらいして、岩城宏之さんなどと共に私も会員のメンバーに加えられ、たくさんの新しい曲を演奏してきた。

まだ武満徹などという人が世に出ない時代、ここで新人作曲家のコンクールも行われ、武満さんも応募者の一人だった。信じがたいだろうが、まだ23才にしかならない私も審査員にひとりにされた。しかも作曲コンクールの審査員なのだ! 私は武満さんの斬新な作風に打たれ、真っ先に入賞候補に推薦した一人だったが、懐疑的な意見もあった。ともかくみんなまだ若く、熱気に溢れた雰囲気につつまれていた。普段はメンバーの何処かの家に集まり、議論をたたかわしていた。私は一番若くて何のことやらわからず、ただ呆然とはしていたが、そこで得たものはのちの私の貴重な精神的財産となった。

吉田先生、ありがとうございました。合掌。

公益社団法人「日本演奏連盟」 [音楽全般]

 長らくこの団体に関係していながらあまりブログで取り上げなかった気がする。内閣総理大臣から新たに公益法人として認可の下りた演奏家団体。演奏家の福祉厚生をひとつの柱にしていたが「公益法人」となると、この連盟のメンバーだけでなく、広く社会全般に恩恵が広がるよう、金の使い道がかなり制限される。理事もただお義理で名を連ねているだけでなく、理事会は半数以上本人が出席しなければならない、というお達しである。今日は旧法人としての最後の理事会とあって、多くの音楽家が出席された。その顔ぶれを見ると、よくまあこれだけのそうそうたる音楽家が集まった、と改めてこの団体の凄さを認識した。それにしてもこんなに顔ぶれが揃ったのははじめてのような気がする。

 理事長の伊藤京子さんをはじめ、飯守泰次郎、秋山和慶、海野義雄、堤剛、畑中良輔、金昌国、木村俊光、五十嵐喜芳、伊原直子(敬称略)等々、ふだんは滅多に合わない人たちばかりだが、お互いみんな顔見知りだから、やあやあ、ということになる。秋山さんがたまたま私の隣の席だったので、当然話題は「鉄」。彼もいま何か新しいことを始めているらしい。どうやらRhätische Bahnのかなり巨大な模型を作りつつあるようなのだ。動力は車のバッテリー、というから、彼のことだから、また人間の乗れるようなのを作る気でいるもよう。以前にも南相木のLGBを見に来てもらったから、iPadで最近のLGB状況を見てもらう。「また見に行くね」「今度は長大編成も可能だからCanadianを走らせよう」「じゃあ、1マイル列車を」。。。

 つい先だって秋山さんには札幌大谷大学の吹奏楽の指導にきてもらったから「学部長」の立場として当然お礼をいうべきチャンスだったのだが、それも「鉄」のせいでいい忘れた。いったい今日、私はここへ何しにきたのだろう。

札幌日記(2) [音楽全般]

 札幌音楽家協議会、という演奏家、作曲家、指揮者などの団体が結成50周年を迎える、ということでキタラ大ホールで3時間にわたるコンサートと祝賀会が盛大に行われ、私も招待された。

 この種の祝賀コンサートは会のスケールが大きくなればなるほど様々な困難がつきまとうものだが、当夜は3部にわかれ、ファンファーレに始まり、第1部が管楽器と4台ピアノのコンチェルト、第2部がピアノ合奏中心、第3部がオペラ、合唱とうまくまとめられている。演奏はどれも水準が高く、札幌の音楽界もここまで来たのだなあ、と昔の札幌を知る私には、感慨深いものがあった。様々なコンサートの企画に関わることの多い私も今日の演出は大変参考になった。50年昔、といえば札幌交響楽団ができ、札幌大谷短大ができ、そのほかいまの札幌の音楽的水準に達するための一連の記録すべき時期であったことがわかる。

 地方都市でこのようなまとまった音楽団体が50年も活動を続けているのはあまり例を見ない。関係者のスピーチを聴いていると、ここまでくるにはいろいろ紆余曲折もあったようだが、日本でもいいモデルになりうるケースではなかろうか。かといってこのモデルがほかのどこの都市でも簡単に実現できるとは思えない。50年の歳月の積み重ねは大きい。スピーチで私も一言しゃべったものの、例によってなんか見当はずれなことを言ったみたいな気がする。

 今夜は日本ショパン協会北海道支部で私のショパンの講演、公開講座がある。6年も札幌と関わっていると、何かとおつきあいもふえてくる。

ある電車の中で [音楽全般]

 この何年か、電車の中で楽譜を広げて読んでいる姿をよく見かけるようになった。見るからにママさんコーラスとおぼしき人、ブラバン練習から帰りの高校生とおぼしき男の子、などなど・・・。そうでなくても買い物袋に印刷された楽譜、洋服の模様に取り入れられた楽譜類などはどういうわけか大体がクラシックのものが多い。

 そういうものを目にすると、私はどうしても職業意識が働いてしまう。特にその楽譜が知らない曲であるとき、よけい興味をそそられる。何の曲だろうか、この人は何の楽器をやっているのだろうか、どんなグループに属してこの曲を奏でているのだろうか、などなど・・・。

 今日、電車の中でたまたま隣に腰掛けた女子高生とおぼしき女の子がパート譜を広げていたが、そのうち楽譜を持ったまま居眠りをしてしまった。それを良いことにそれとなく楽譜をそっと横目でのぞき込んでみると、譜面づらからしてどうやらウィーン古典派のものらしい。パートはフルートの2番。ははあ、この子はフルートの2番なのか。 D-durで作曲者はE.T.A.Hoffman。なるほど。曲名までは見えない。どうやら arr,by 誰それ、とあるところを見ると、多分管弦楽曲の吹奏楽用編曲ものであろう。オリジナルなら編曲者の名前が書かれるはずはないからである。

 そこから私の推理が始まる。この2番フルートの上に、1番フルートはどんなメロディがのっかっているのだろうか。更にこの下にどんなハーモニーが付き、どんなオーケストレーションになっているのだろうか、トータルどういう曲なのだろうかと想像をたくましくして楽しんでいるうち、私は乗り換えの駅に着いてしまった。女の子は相変わらず居眠りしたまま。こんな行為はセクハラにはならないとは思いますがどうでしょうか。やっぱりセクハラなのでしょうか。

 あ、私は「東洋経済」の鉄道記事を読もうと思って雑誌を広げていたのだが一字も読まないで終わった。

ハーモニカの達人 [音楽全般]

 ハーモニカといえば年輩の人には子供のおもちゃの楽器、というイメージであろう。たしかに昔のおもちゃはドレミファソラシドしか吹けない単純なダイアトニックな楽器なのだが、クロマティック・ハーモニカはコンサート楽器として、全く別物、といっていい。

 和谷泰扶(わたにやすお)さんは、数少ないハーモニカ奏者としての名人の域に達した人で15年間ドイツで活躍した人である。明日のコンサートのためのリハーサルのあと、いろいろ面白い話を伺った。この楽器の音域は下が「C」で、基本的にハ長調のフルートと同じだが、キーの操作で半音あげることができる。それによって、半音階も吹けるわけだが、ピアノなら何でもない半音階を演奏するのは大変複雑な演奏技術が必要になる。

 この複雑な楽器も名人の域に達すると素晴らしい音色と独特の表現が楽しめるのだが、これは容易ではないから、ピアノのように誰でもそこそこできるようになる、というものではないようである。さらに困ったことに、現在ではハーモニカ奏者のほとんどはポップス関係で、クラシック一筋、という演奏家は真砂の中でダイアモンドを見つけるに等しい。彼はこれを日本に広める、という責任を負っているのでそういう意味では大変新しい楽器、といえる。(ちなみにハーモニカは1800年代初頭にドイツで生まれた)

 明日のプログラムの中に私はモーツアルトのヴァイオリン・ソナタからハーモニカに適当な一曲を選んで演奏してみるよう提案したのである。もちろん、ハーモニカ・ソロのオリジナル曲も少なからずあるから、それもプログラムにはいる。和谷さんのきわめつきは、ショパンの「小犬のワルツ」であろう。この曲をピアニストも真っ青になるような早いテンポで演奏するのだ。私はただあっけにとられた。これを演奏するための伴奏楽譜は存在しないので、普通、ピアニストは左手だけを弾くことになるそうである。これでは私はとても満足出来ないので、ハーモニカ専用の伴奏譜を適当な遊びをところどころ入れながら作成した。さて、明日はどんなコンサートになるか・・・。
(四日市とまりむら・定例コンサート)

ルーマニアの音楽 [音楽全般]

 Francis Chagrin(1905年生まれ、多分フランス流にフランシス・シャグランと読むのであろう)というルーマニア生まれの作曲家がいる。ルーマニアといえばヨーロッパでも辺境で、私もこの国にいったことはないが、すぐれた音楽家を生んだ国でもある。ルーマニア生まれの音楽家、といえば作曲家ではエネスコ、ピアニストではリパッティ、が代表格。かつてこの国はハプスブルグ帝国の勢力が及んだ一番東あたりにあたるので、昔はドイツ語が通用していたようである。ショパンの弟子の中でも有名な、ミクリ、フィルチュなどもルーマニア生まれで、「カール・フィルチュピアノコンクール」なるコンクールものも開催されていると聞く。

 さて、シャグランであるが、この人はパリのコンセルヴァトワールでブーランジェなどものとで、正統的な作曲を勉強した人だが、2曲のシンフォニーなどまじめな音楽も書くが、映画音楽、娯楽音楽の分野でも活躍し、また多くの若い現代音楽作曲家の作品を紹介したことでも知られる。この人の作品に、ハーモニカと管弦楽のための「ルーマニア幻想曲」という作品がある。ハーモニカ、というマイナーな楽器を縦横に使いこなし、民族色豊かで、構成的にもしっかりとした作品で、相当なレベルの作曲家であることが見て取れる。今度これを弾くためにピアノパートをさらっているのだが、まだまだ自分の知らない面白い音楽の世界があるなあ、と楽しくなる。

アルバン・ベルク協会 [音楽全般]

 著名な作曲家の名前を冠した協会が日本にもいくつかある。その中で異彩を放っているのがアルバン・ベルク協会であろう。名の通り、アルバン・ベルクの研究団体として前述した、諸井誠さんを中心に長年活動を続けている。諸井さんによる、「ルル」「ヴォツェック」などの楽曲解説、詳細なアナリーゼなどこれまでに多くのすばらしい論文が会誌の中心を飾ってきた。研究対象はかならずしもベルクだけにかぎらず、広く現代音楽、ベルクに縁の深い音楽家、など、活動は多岐にわたっている。

 ただピアニストの立場からするとベルクの作品でピアノが関与するものといえば作品1のピアノソナタ、ピアノとヴァイオリンと13管楽器のための室内協奏曲、あとはクラリネットや声楽の伴奏など、出番が少ないこともあって、ピアニストからはほとんど関心を持たれていない。実は私も諸井さんに誘われて理事のひとりに名を連ねているものの、会議にもあまり出席せず,ほとんど何もしない「ダラ管」だが、久しぶりに理事会に出席してみた。

 理事会の会場にはそうそうたる作曲家、評論家、研究者がいらして、どうも私は場違いな感じがするのだが、ともかく,議論はじっと聞いていた。「なにかご意見ございませんか」といきなり私に向けられても「いや、わたしはなにもわからなくて」とはなはだ頼りないことしかいえない。ただ諸井さんもご高齢のため会長も世代交代したようで新会長は作曲家の一柳慧さんがその任になられたようである。そのことだけを確認して会場のコンチネンタル・ホテルをあとにした。

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