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第九の季節 [音楽全般]

年末にベートーヴェンの第九を聴く習慣が根付いて久しい。これは日本だけの現象だそうであるが、無宗教の人間の多い日本にはうってつけであるから自然とそうなったのだと思う。ヨーロッパではこの時期、むしろヘンデルのメサイアの方が多いが、メサイア、つまり「救世主」という宗教的雰囲気が全ての人に素直に受け入れられない面があるのかもしれない。そこへ行くと「第九」のシラーの詩は「Alle Menschen werden Brueder」(全ての人々は兄弟となる)であるから、宗教、人種を超えた思想であり、誰にも受け入れられやすい。

それにしてもあの有名なメロディにたどり着くまで、3つの楽章を約一時間、延々と聞かされるわけである。それでも一般的に全楽章を演奏するのが当たり前で、最終楽章の合唱だけがいいからそこだけやろう、ということにならないのはやはりそれなりの理由がある。晩年のベートーヴェンの曲は難解なものが多いがそれは第九とて例外ではない。多くの人は気付いていないが、それはベートーヴェンの音楽の構成力にある。あの有名な「歓喜の歌」は第四楽章になって突然現れるわけではない。第一楽章の第二主題、第二楽章スケルツォの中間部、などにすでに多くの布石は打ってあり、人の心には意識しなくても「何処かで何回も聞き覚えがある」ところに、チェロとコントラバスのはだかの主題があらわれるのが実に印象的に響くのだ。

私はよく講義で第一楽章の冒頭のたった二つの音「ミ・ラ」という下降の発生動機からこの巨大な曲が構成される、あの有名なメロディもその延長線上にある、という話をする。ピアノ学生相手には、ピアノソナタの第二番の発生動機もまったく同じネタから曲ができており、展開のさせ方次第でこうも違った曲になる、というとびっくりする学生は多い。作曲をするということは、建築物を作るのと同じ「構成」のなせる技なのだが、音楽を専攻する学生にも一般にその意識は薄い。

ともあれ、この季節に限らず私は第九の最終楽章の華やかな合唱を支えるオーケストラのいわば日の当たらない伴奏部分の実に緻密な書かれ方に興味をもって総譜をにらんでいるが、にらんでいるほどに、この部分の面白さは合唱部分の比ではない。実際の演奏は感動的な瞬間でところでたちどまってはくれないが(立ち止まってくれないからこそいいのでもあるが)総譜を読む作業は瞬間に通り過ぎる面白い部分の秘密を探る上でこの上ない至福の時でもある。

五木の子守唄と第五交響曲 [音楽全般]

ちょっと必要があって、「五木の子守唄」にピアノ伴奏を付けた。こんな名曲は私がやらずともたくさん楽譜は出ているはずだが、おそらくはどれも自分の気に入らないであろうから、自分独自の和声法に、前奏と後奏をつけてみた。この曲は歌詞が5番まであるので、それぞれの歌詞のニュアンスを生かし微妙に一番ごとにわずかにピアノパートを違えてある。歌う歌手の歌い回しによってピアニストがその場の雰囲気でいずれかを選べるようにもなっている。たった八小節しかないこの素朴な歌は編曲者のセンスが最大限試される。

こういう場合つねに最良のお手本になるのは、ブラームスの素朴なドイツ民謡につけたピアノ伴奏であろう。民謡の素朴さを生かすため和声も音形も最小限にとどめ、しかも出来上がったものは芸術作品としてみても最高度の価値を有する。ケバい伴奏はせっかくの歌を台無しにするから、ブラームスも最小限の音しか使っていない。歌を絵、伴奏部を額縁に例えるなら、額縁だけがやけに立派すぎてもやはり絵は損なわれる。

やっている間に妙なことに気づいた。五木の子守唄とベートーヴェンの第5交響曲の第二楽章のAs-dur(より正しくはC-dur)の副主題とが音列的に全く同一なのだ。かたや短調、もう一方は長調、という違いはある。もとよりこれは全く偶然の一致である。このような音列の並びは何もこの二つの曲に限らず、少し考えるとほかにもたくさん名曲が存在することがわかる。黄金の音列、とでも言おうか。

即興演奏 [音楽全般]

アムステルダム音楽院教授のカールスト・デ・ヨング先生のワークショップが洗足学園であったので、即興演奏というものはどのように教え、教えられるものか興味を持っていたので顔を出してみた。
演奏に参加する学生は、ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、フルート、電気ギターなど7、8名。

最初にまず、お互いがどのような音を出しているかよく聞くこと、という説明があり、調性、拍子、リズムなど無関係に、誰かが出す音に反応して、それにふさわしい音、もしくは対立する音を出して行く。これはそうむつかしい話ではない。言葉は悪いがデタラメでもなりたつからだ。しかし楽譜を基本として勉強してきた学生には「でたらめをひく」という発想も能力もないのが最初の印象ではあるが。。。

次は先生がピアノで、2小節づつ単位のメロディを単旋律で弾き、8小節程度のものを聞いて覚え、2小節づつ各楽器が連続して弾く、というもので、これは容易ではない。何拍子で、何調で、ということはあらかじめ知らされていないから全部聞き終わるまで、どのようなものかわからないわけである。簡単なメロディだから、一度聞いて書き取ることは何でもないし、全部書き終われば、何拍子か、何調かわかるし、リズムの区分けもわかる。ただ、一度だけ聞くだけで楽譜なしに構造を理解するのは私にもできない。学生ももちろん難渋したようで、何回か聞いてやっとわかってきたようである。

その次は、複合拍子の問題でこれはさらに難しい。これらを聞き取りながらフレーズの区分、どのような和声がつくか、など理解しなければならない。考えてみれば、三部形式のような簡単な形式であっても音楽を即興するためには最初のAの部分は自分が即興でひいたことを完全に覚えていなければならない。この時点で私にはもうお手上げとなる。ただベートーヴェンのような大天才はそれができたようで、即興であってもだいたい形式にのっとっていた、という記録もある。即興に抜群の記憶力が必要、という点では私などまず落第である。

しかし古来、大作曲家は即興演奏の名人でもあったから、教わらずともそういう能力は天性持っていたのに違いない。でもそのような記憶力がなくともとりあえず音楽を、あるスタイルの中で自分流に展開させて行くことなら私にもできるし、公の場ではない、私的な集まりではときおり披露してもいる。ピアノコンチェルトのカデンツなどを即興するのに形式は必要ではない。調性感がしっかりし、どこへ行ってももとの調性に即興で戻る転調能力さえあればいいのだから。これなら私にもできるのだ。ただ本格的な即興能力となると、上記のような訓練も必要となるのであろうが、もうこの歳ではいかんせん、私にはおそすぎる。

ただ若い学生たちにはこのような世界もある、ということを知ることは必要であろう。だが若い時、とりあえず自分の楽器を弾く能力を伸ばす必要がある時期、実際問題としてどこまでこの訓練に時間がさけるであろうか、という疑問は多少残る。

日本ピアノ教育連盟とPTNA [音楽全般]

私も日本ピアノ教育連盟の会長を辞してだいぶん年月が経つし、現在私個人としてPTNAにまったく無関心いうわけでもないので、ピアノ教育の両団体について、私なりの現時点での感想の記録を残しておくのも必要かと思い、筆を執る次第。折しもピアノ教育連盟発足30年記念の年でもある。ありていに言って当時のPTNAの経営方針に批判的なピアノの指導者や、先生の集まりで発足したのが日本ピアノ教育連盟であり、私もそれに賛同した一人として名を連ねていた。私がピアノ教育連盟の会長の職務にあった間は、当然PTNAからはある距離をおいていた。

ただ、目指す目的は同じでも二つの団体が合体することは今後もあり得ないであろうが、お互い協力してピアノ教育の向上の仕事に当たれば、両団体で日本のほとんどのピアニスト、ピアノ教育者、音大教授などを会員に擁している関係上、かなりなインパクトを持つと考えた。いまだから言うが、私は連盟会長時代、時折、PTNAの事実上の理事長であるF氏とは内密に水面下で会合を持ち、お互い足らざるを補いながら、日本のピアノ教育界のためにお互いにいい関係に持っていけないかとざっくばらんに話し合っていたが、私が会長を辞して以来、現在それはほぼ途絶えている。

数十年の歴史を経て、両団体にもいろいろ変化が見られた。それぞれにピアノ教育界に大きな足跡を残しているが、依然、対立状態のままで交流はない。もう私はこの年齢でどちらの役員にもなる気はないが、いまは両方のパイプ役になれる人材が見つからないのが気がかりの一つなのである。というより、そもそもそういう発想がなくなっていることが問題と考える。昨日、一昨日のかつしかシンフォニーヒルズもそうだが、PTNAの特級コンペの審査にときたま加わって見て感じたのは、非常に優れた若いピアニストが多数参加していて、このコンクールはやり方にまったく問題がないとはいえないにしても、今後も大きな期待がもてる、ということをここ数年感じている。一方教育連盟の活動内容は連盟独自のユニークで他では真似のできないことを一歩一歩地道に続けているにもかかわらず、やや足踏み状態、という風にも外からは見えるようだ。発足30年記念の座談会のゲラを見ている最中なのだが。。。

笛曼荼羅 [音楽全般]

野田晴彦+小泉清人DUO。。。

畑違いのところに顔を出したかなあ。と思いつつも祖師谷自宅近くの小さなカフェで行われたライブにいって見たのはそれなりの理由はあったのだ。ギターと笛のライブ。笛はリコーダー、サンポーニヤ(ブラジルの葦笛?)パーウー(中国雲南省のトラヴェルソ?)などなど見たこともない素朴な民族楽器の笛がいっぱいならんでいる。普通にいうポップス、というジャンルにも当てはまらない、さりとてクラシックでも勿論ない。

通常ポップスとかロック、というとスピーカーをフルに使うやたらとうるさいもの、というイメージで私は音楽の範疇に入れていない。だが、これはちがう。20人くらいしか入れないカフェだが、私は最後まで心地よく聞いた。プログラムを印刷したのだけど持ってくるのを忘れました、とまず人々の笑を誘ってから、一曲一曲両人のオリジナル曲を解説付きで演奏。といっても、みるとあらかじめ作ってある部分はメロディと和声進行くらいのもので、譜面台を覗いても五線紙は載っているものの音符らしいものはほとんど書いてない。本当かどうかわからないがギタリストの小泉さんは音符が読めないのだとか。。。

ともあれ、音楽そのものは私にもすんなりと受け入れられた。イージーリスニング、というのとも違う。何よりと聞き手がみんな心から楽しんでいるのがわかる。ピアノの発表会とこうも違うのはなぜだろう?音楽の核心である和声進行がきちんとしており、そうかと言ってありきたりの進行ばかりでもない。かなり即興の部分が多く、即興でここまでできるか、と私には羨ましく思えたが、彼らにしてみればこれは当たり前なのであろう。たぶんこの素朴な葦笛はギターばかりでなくピアノでも十分支えられるだろう、とも感じた。私はハーモニカ相手にピアノの蓋を全開にしても相手を邪魔しないで弾く経験も何度かしている。ピアニストはどんなピアニッシモでも表情をなくさずに弾けることもまたときに求められる。私にすぐにできないのはコードネームだけで即興を楽しむ技量で、これは何度もいうが羨ましくて仕方がないのだ。通奏低音なら多少できるがそれともまた一味違う。今月はいろいろと珍しい音楽体験をした。


佐村河内守考 [音楽全般]

どんな音楽に感動を覚えるかは人によって様々であるから、私の音楽に対する感動の覚え方が人と違うからと言って他人の感性をを否定するつもりはない。70年以上もいろいろな音楽に接してきて思うことは、自分の感性を頼るほかない、という単純な当たり前のことに帰着する。ベートーヴェンの音楽が素晴らしいと思うのは、耳が聞こえず、大変な辛苦を経て自分の音楽を築き上げてきた音楽家だからではない。耳が聞こえなかろうが、貴族で安楽な生活を送ってこようが、そんなことはどうでもいいのである。

佐村河内なにがしの一件はマスコミに乗りやすい物語がうまく設定された。音楽の良し悪しとは関係なくマスコミに乗りやすい条件が揃っていたというにすぎない。「それでも涙を流して感激して聞いた人もいるではないか」という反論も当然あろうが、話はこれも簡単で「私はそういう音楽的感性は信じない」それだけである。ここが重要で「人の感動の仕方は自由であり、否定はしないが、音楽家としては、音楽としての質は私の感性からすれば信じない」ということである。これは作曲家が有名か無名かとは別物である。

私もベートーヴェンの音楽がすべて素晴らしい、と思っているわけでもない。一例をあげれば時折演奏される「合唱幻想曲」は私はベートーヴェンの霊感の薄い「壮大な駄作」ではないかと思っている。これは自分でも演奏の経験をし、スコアを詳細に読み込み、また人の演奏を聞いての感想である。もしかして素晴らしい演奏を聞けば評価はある程度変わるかもしれないが、それでも基本は変わることはないと思っている。

演奏があまりよくなく、不満はあっても、ショパンのバラードの素晴らしい曲の出来栄えに関しては、私は頭の中で演奏を修正しながら聞いているから、いい音楽だなあ、と感動する点では、演奏ができの悪い学生だろうが、天才的なピアニストであろうが、それほど変わらない。要するにあるレベル以上の演奏であれば、その曲を評価し、鑑賞する妨げにならないのである。極端な例では、作曲家の池之内友次郎先生のように、スコアをみれば演奏など聞かなくても曲はわかる、という。極論だがわかる気はする。

でもこんなことを言っているようでは、ピアノの先生という職業は成り立たない。そういうわけで、ピアノの演奏の良し悪しは否が応でも評価しなければならない立場にあるが、私には作品がいいか、悪いか、が興味の核心なのである。その観点からいうなら、佐村河内なにがしの作品の価値については論外、としか言えない。

偽物・本物 [音楽全般]

ベートーヴェンの再来、とはまあ言ったものだなあ、となかば呆れていた。マスコミがこういう仰々しいうたい文句で担ぎ上げる時は、特にクラシック音楽に関しては私はいつも疑いの目を向ける。今回もそうで、本当に天才的な才能なら、天才の重要な特徴として非常に若い段階から信じられないほどの才能を見せるものだ。そしてそういう途方もない才能がある、という噂はマスコミの格好の対象になる前に、なんらかの形で音楽業界には知れ渡るものである。この業界の人が知らないうちにマスコミに持ち上げられるケースは大体いかがわしいことが多い。

これまでそんな話は誰からも聞いたことがなかったから、TVの特集を見て一体なんのこっちゃ、と成り行きを斜めに構えて見ていたので、やっぱりなあ、とは思ったけれどゴーストライターがいた、とまでは想像しなかった。クラシック音楽に関する限り、日本人特有の真面目さが支配的だから。

偽作問題はどこの国でもどのジャンルでも昔から存在した。今回はマスコミがフェイクを見破れなかった、と問題になっているけれど仕方がない面もある。250年以上たった現在だってバッハの真作かどうか、と問題になっている曲が700曲以上もあるのだ。どれも世界中のバッハ学者が必死に研究をつづけてさえこの有様である。それでも昔は初版楽譜、自筆原稿の筆跡や紙、インク、などの「証拠物件」がある程度残っているが、現代の作曲はほとんどがPCであるから自筆原稿などの証拠物件は残らないことが多い。真贋の証明は一般の人が思うほど簡単なことではないのである。

セバスティアン・バッハの長男、ウィルヘルム・フリーデマンも天才的な才能の持ち主で、彼の残した真作は第一級のものである。それでも性格的な問題が災いして晩年は身を持ち崩し、父親の作品を自作と偽って出版しようとしたがバレて問題になった。それを伝え聞いたセバスティアンは心底嘆いてこう漏らしたという。「ああ、フリーデ、何もわざわざワシのものを持ち出さなくとも、お前には自分で立派なものを作れる才能があるのになあ。。。」

「平均律」と「フーガの技法」の違いについて [音楽全般]

「フーガの技法」に長年取り組んでいて、その面白さは尽きることがないが、「平均律」をはじめとする、それまでバッハが書いてきた膨大な数のフーガと「Die Kunst der Fuge」の間には明らかな一線を画する違いがある。この面白さのためにますますのめり込んでいるのかもしれない。

その違いを最小限の言葉で言い表すなら、他のフーガに比べて「ストイック」「遊びが最小限である」「たった4小節の一つの主題から音楽を宇宙の彼方まで展開できる限界への挑戦」といったところか。そのため、逆に平均律のフーガをこの視点からみると、いたるところ遊びだらけで、今にして思うとそれをバッハ自身が楽しんでいるように見える。

バッハが自らに課したがんじがらめの手法を極限まで厳守し、しかもどの一音も音楽的でない音がない、無駄な音もなければ足りない音もない、というのは真に驚嘆すべきことである。この理解されにくく、奇跡のような音楽も識者ばかりでなく、最近一般にも認識され始めたようである。日本でもピアノ用の楽譜が出版された、というのはその表れかもしれない。先ほど挙げた三つの特徴のうち、「ストイック」という点がとくに私には気に入っており、かつ重要な点であると思う。私はいずれ誰かに聞いてもらおうというつもりでこの曲の勉強に取りかかったのではない。ひとえに老境に入った自分のためだけである。とはいえ、やはり面白さをひとに伝えたい、という欲求を抑えることはできにくく、おりに触れて人前でも様々な形で弾いてきた。

もとより、この謎めいた曲に関しては古来様々な学問的研究がなされており、可能な限り私もそれらの文献に目を通すようにしているが、それにしてもわからないことが多すぎる。ただピアニストとしては学問的にわかっていないことが多いとしても、音に出して楽しむことが出来るのはこれ以上の愉悦はない。人前で弾く、弾かないにかかわらず。

諸井誠さんお別れの会 [音楽全般]

9月2日に逝去されたということを伺っていたが、身内のみのご葬儀ということで、一昨日、サントリーホールのローズルームで一柳慧氏が発起人代表となってお別れの会があり、私も参列した。

自分はこの人に出会ったおかげで今日の自分がある、ということは誰にもあることだが、その意味では諸井氏との出会い、短からぬお付き合い、彼の主要なピアノ作品を初演させていただいたことはその後の私の音楽活動に大きな影響を受けた。また、ほとんどもう知られていないことだが、ヤマハのグレードシステムを一緒に立ち上げた一員として得た経験は、これまたただピアノをひいていただけでは得られない社会的に広く物事を見るという意味での自分の貴重な財産となった。

作曲家として前衛音楽の旗手として多くの功績と作品を残された。お別れの会は平日のお昼、ということもあったかもしれないが、意外と参列者が少なかったのはどうしたことだろう。諸井氏のお世話のおかげでできた仕事というのは、当然私が関係していないところでも数多くあったはずだが。。。。

アルバン・ベルグ協会とか、ベートーヴェンクライス、とかあまり衆人の目にはつかないけれど、これほど多くの功績を残された人だけに、一抹の寂しさはぬぐえなかった。

野外劇場のコンサート [音楽全般]


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ヨーロッパには廃墟趣味、とでもいうべき一つのジャンルが存在する。古い城や劇場など廃墟になったものを、活かして演劇、オペラ、コンサートなど、とくに夏は地中海沿岸は雨が滅多に降らないので、観光客目当てに様々な催し物が多い。

これはシチリア島のタオルミーナという保養地でたまたま私が滞在したとき、ミュンヘンのオーケストラとサワリッシュの指揮でベートーヴェンの第九のコンサートがあり、そのときの模様である。ふつう日本人なら、まず聴こえないだろうから拡声装置を、という発想になるのだが、そういうものはほとんど使われない。あくまでありのまま、で最小限必要な山台と椅子が置かれるだけの簡素なもの。

オケもごく普通の2菅編成、合唱も普通のコンサートの人数である。私は試しに一番上の遠い位置に陣取って鑑賞した。曲の細部も良く聞こえるし、迫力にも欠けるところがない。当然のこととしてわかったのは迫力、とは音量の大きさではなく、音楽の内容、ということで、多分ここでチェンバロのコンサートをやっても演奏と曲がよければ同じ感想を持つであろう。一万人くらいは収容できそうなギリシャ劇場である。


オケの向こうには廃墟の割れ目からタオルミーナの町と地中海が見渡せるすばらしいロケーションにある。

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