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Ade! Ootani [札幌大谷大学]

私にこれといったことは何もできなかったけれど、8年間無事勤めさせてもらった札幌大谷大学。いろいろ問題も多かったけれど楽しいこともまたあった。皆さんと苦楽を共にした、というほどの働きをしたわけでは決してないが、この8年、自分にとって何もかもが新しい経験だった。70歳をすぎてからこれまで全く経験しなかった仕事をやれる、ということは普通の人生ではまことに得難い。世の中、70過ぎても仕事を続けている人は少なからずいるだろうが、それもこれまでやってきたことの延長線上での仕事である。私は、人生のおまけ、どころか人生を2度生きた感じがする。

この日は札幌グランドホテルで盛大な送別会を持っていただいた。グランドホテルは当初しばらく常宿にしていた思い出深いところでもある。すべて感謝これにすぎることはない。皆さん、本当にありがとう、そしてこれからの大学の発展を祈り、見守ってゆきます。Alles,alles Gute weiterhin,und Aufwiedersehen !!
(2014・3・17)

卒業式+「北斗星」 [札幌大谷大学]

今日は札幌大谷大学の卒業式。私も一緒に卒業することになるが、学部長職という管理職は退くものの、客員教授としては当面年に何回、という程度のペースで来札するので、札幌に来る機会がまったくなくなるわけではない。

昨日、ブルートレイン「あけぼの」がラストランとかでフィーバーしている様子がTVで報道されていた。これで残るブルートレインは「北斗星」のみとなる。「北斗星」も来年度いっぱいで廃止になるようであるから、私も大学卒業記念イベントとして、札幌からの帰りの旅程に航空機ではなく、「北斗星」に乗ることに決め、1カ月前から寝台券の予約を取っておいた。まだ乗るチャンスがないわけではないが、大学も卒業することだし、生活の一区切りには格好のイベントとして、妻を札幌まで呼び寄せ、(学部長室の片付けと引き継ぎを手伝ってもらう、という下心もある)一緒に個室寝台で帰ろう、という魂胆である。

20年くらい前だと思うが、一度下りの「北斗星」で札幌に来たことがある。今回は上りの「北斗星」で帰京することで、上下クリアすることになる。「北斗星」廃止にはまだ一年あるせいか、指定券を取るのにはとくに問題はなかった。これから一年、最後のブルートレインの引退としてフィーバーは徐々に高まるであろう。私はその渦に巻き込まれないうちに、ごく普通の乗客として、乗っておきたいのである。大学の同僚の先生が私を冷やかした。「今度先生が札幌に来る最大の目的はほんとは北斗星に乗ることでしょう?」まあ当たっている。(札幌)

引っ越し [札幌大谷大学]

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そうと決まれば私は気が早い。年度末に一度に引越しをするのは大変だから、とりあえず、私物を少しづつ東京に持ち帰る。まずは研究室に飾ってあった103牽引のLufthansa Expressから。JALに乗る時はいつも一番空いている最後部の席をとる。今回もまわりに人がいないところに陣取り、こういう壊れやすいものは手でぶら下げて持ち帰る。どれも機関車や、レールといった金属の塊のようなものだが、一度も保安検査場でひっかかったことがないし、咎められたこともない。金属探知機でベルトの金具程度のものでも引っかかり、結構手間を取ることもあるにもかかわらず、である。考えようによってはMレールなど、使いようでは凶器にもなり得ないこともない、と思うのだが。

飛行機から降りる前に、ケースにかけた紐がゆるんでいるのをみつけて、紐を締め直していたら客室乗務員のお姉さんが目ざとく見つけた。「あら、これルフトハンザじゃないですか。電車なのになぜルフトハンザなのですか」さすがJALの乗務員、目の付け所がちがう。「いや、これは航空会社がDBの車両で運行していた特別の列車で、今はもうありませんが。。。。」と講釈を始めたところで降りる順番がきた。

今年度で終わり、札幌 [札幌大谷大学]

当初、せいぜい4年程度、と思って始めた札幌大谷大学の仕事を今年度一杯で芸術学部長の職を辞することにした。音楽学部を立ち上げ、芸術学部に改組して合計8年、少々長居をしてしまった気もするが、すぎてしまえばあっと言う間でもあったような気もする。私が何かお役に立てたのかどうかはわからない。当初、いい音楽大学にしたい、と張り切ったものの、組織というのは思うようにはなかなかゆかず、なんか中途半端に終わった気もするが、もう年も年だし、十分働いたと思う。あと何年かやってもたいして変わりそうにない気がするので若い先生に後任を託し、管理職は降りる。そもそも私は管理職向きの人間ではないのだ。もう人や仕事を管理したくないし、されたくもない。

人間や仕事を管理する、というのもそれなりの才能が必要なのであろう。これからはまだ関係している幾つかの音楽大学も、いずれも客員という形でつかず、離れずの感じで専門分野で役には立てると思う。要するに一介のピアノ弾きという本来の姿にもどるだけのこと。そのための時間的、気分的には余裕は生まれる。余裕をどのように生かすか。少し働き中毒気味になってしまったのを元へ戻すには努力が必要なようである。多分アルコール依存症を治すくらいの覚悟がいる。

第7回定期演奏会 [札幌大谷大学]

ラインベルガー:ミサ曲 ト短調
レスピーギ:主の降誕の賛歌
ウェーバー:魔弾の射手序曲
リスト:ピアノコンチェルト 第1番
コダーイ:ハーリ・ヤーノシュ組曲

堂々たるプログラムになった。それだけでなく、演奏も格段に良くなった。やはり回数は重ねるものである。私は音楽大学でオーケストラをもたない大学などありえない、とつねに主張して,ずっとこれには一番力を入れてきたが、今回の公演のリハーサル・本番を聞いて、積み重ねの効果は大きい、と強く感じた。第一回目のコンサートで、いずれハーリ・ヤーノシュのような曲がこのレベルで演奏できるようになると誰が想像しただろうか。

ソリストの押切雄太君のリストも堅実なテクニックでとても音楽的であったし、レスピーギはこの音楽に深く心からの感動を憶えた。多分学生諸君もおなじ思いをもったと思う。もちろん問題はまだたくさんある。質的にも,量的にも、である。弦楽器のエキストラはいずれ頼らない方向にもっていきたいし,指揮者も自前でやる、のがとりあえずの中期目標である。私は本当に第一級の音楽だけを選んで学生を参加させたいのだ。そして演奏も第一級でなければその面白さはなかなかわからない。

でもこのプロジェクトも有り難いことに若手の先生方がいろいろアイデアを出し、多くの資金的、人的困難を乗り越えながらここまで来た。先生は舞台のセッティングや裏方も務め、その上で,自分も学生の足りないところを補って一緒にステージにたって合唱の一員も果たし、と一人三役もこなしたのでへとへとに疲れたことと思う。がまたその達成感も大きい。ハーリ・ヤーノシュに使われるハンガリーの民族楽器、ツィンバロムも東京から楽器と一緒に客演できてもらい、この珍しい楽器も大きな役割を果たした。(写真)

このプロジェクトは確実に定着し、もう私の手から離れつつあるあるのを感じる。第10回の記念演奏をどうするか,という話まで出ている。それは本当に嬉しいことだ。(札幌)
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ツィンバロム、リハーサル中

ジュンジュシ先生追悼コンサート [札幌大谷大学]

いいコンサートだった。学生も先生も、ジュンジュシ・ゾルターン先生の逝去を惜しむ人たちがステージに立ち、思い思いの曲を演奏した。いい人というのはどうしてこんなにも早く亡くなるのだろうか。会場の大谷記念ホールも多くの聴衆が駆けつけ、コンサートに聴き入り、在りし日の先生を偲んだ。ステージの上手には写真と花束が添えられ、簡素ながら清楚な雰囲気作りだった。

プログラムはやはりフルートの学生や先生が中心であったが、とくにフルートに限定することなく、思い思いの曲を持ち寄り、演奏も皆それにふさわしい内容を持ったものだった。私が最初に挨拶に立ち、黙とうを捧げたのちコンサートに移る。こういう場で、先生と学生が一緒にステージに立つのは、はからずもいい交流の場になり、その意味でも大変有意義であったと思う。ジュンジュシ先生にも喜んでいただけたことであろう。

コンサートの設定、特に当日人手の足りない中、ステージマネージャから雑用係も務めながら自らもステージに立たれた先生方、コンサートに向けてのチラシやプログラムつくりをしてくれた副手さんたち、そのほか、目に見えないところでお世話、ご助力いただいた方々、ご寄付を頂いた方々、本当にありがとうございました。コンサートの純益や、当日いただいた寄付金はリスト音楽院を通じてジュンジュシ先生のご遺族に手渡されることになっていることになっている。(札幌)

札幌日記 [札幌大谷大学]

 4月1日。入学式と第1回の教授会。芸術学部、社会学部がスタートした記念すべき第1回目の入学式。始めてのことが多いので、いろいろ混乱も予想していたけれど、事務方が万全の態勢をしいてくれたおかげで、まずはこれといったトラブルも起こらず、順調なスタートを切った。もっとも私はその日は会議の連続でかなり遅くまでつきあうことになったが。今年は札幌は雪が比較的少なく、もうかなり解けていて歩行には支障がない。でも気温は0度前後で相変わらず寒い。

 遅くなった、といえば31日の方が大変だった。東京では28メートルの暴風が吹き荒れ、多くの交通機関に乱れが生じていた。飛行機も行き先によってはかなり欠航便が出たりしている。羽田上空の気流がひどいので、離着陸に時間がかかったり、着陸のやり直しで日航機にしりもちトラブルがあった、などなどで、19時30分に出発するはずの私のJAL529便は遅れに遅れて、21時ごろ出発。それやこれやで札幌のホテルについたのは午前0時をまわっていた。でもこんな悪天候でも羽田–新千歳間は一番確実な路線の一つだろう。これもあまりないことだが、777−200のような大型機でも駐機中に強風ので揺れを感ずるほどで、上昇中にはかなり揺れた。でも飛行機には慣れているせいか、客席からはキャ、という声が出るほどでも、私は揺れにはだいぶん鈍感になったようだ。

札幌日記 [札幌大谷大学]

 零下12度もめずらしくなかった、寒い札幌もようやく春めいてきた。東京のように桜とともに卒業式、というわけにはいかないが、雪もかなり溶けたし、もう大雪が降ることもなかろう。例によって仏教式の卒業式や女子学生の袴姿にも違和感を憶えなくなってしまったし、こういう機会に坊さんの法話を聴くのもまた悪くはない。坊さんは音楽家とは物事をまた違った視点で話されるから、なるほど、と感じ入ることも少なくない。もっとも坊さんは人に法話を説くのが仕事だから慣れている、といえばその通りなのだが。

 夜の謝恩会もまた例年のごとくビンゴ大会で盛り上がる。一昨年だったかであったピンクの折りたたみ傘が景品にあたり、「先生、いくら何でもピンクじゃダメでしょうから、色を取り替えましょうか」といわれたが、「いや、このままでいい」。かくて、私のバッグにいつもこのピンクの傘をしのばせていて、ときおりの急な雨には重宝している。でもこれは中国製らしく、そろそろこわれかけてきた。

 卒業式は無事終わったが、私は翌日は、札幌音楽協議会のコンサートとそのあとの打ち上げでスピーチを頼まれているし、その翌日はショパン協会の公開レッスンとかで、「せっかく札幌に来ているのならぜひ」と依頼される仕事が増えてきたような気がする。どうしてこうスケジュールがうまく重複しないで組まれるか、というと、どれも多かれ少なかれ、大学の先生が関わっている行事なため、私の大学スケジュールは先刻すべてご存知だから、それらを考えた上で事が運んでいるようにみえる。

札幌日記 [札幌大谷大学]

 今年一番の寒さだそうである。昨晩7時頃の気温は札幌市内でマイナス11度。このくらいの寒さになると昨晩大学からホテルへ帰るのに通りでタクシーを待つ間、じっと立っているだけで、着込んでいてもどんどん体温が奪われるような気がする。風もそうとう強く、地吹雪の感じさえあるが、これもまた悪くはない。ミュンヘンの冬の寒さを思い出す。このしばれる感じ、一日会議に疲れた頭にはいい気分転換になる。

 今回はだいたい会議のために来ているようなものだが、もう私は観念したのである。管理職に徹することにしたのだ。昔は会議などは単なる時間つぶし、無駄な時間、こんなひどい拷問みたいな時間は必要悪、と思っていた。でも視点を変えてみると、もともと私は人と会話や議論をするのは好きだし、同じやるならその時間を面白く過ごす方策も自分なりに見つけることも出きるはずである。どうしても理解してくれない相手を順序立てて説得するのは、ある種のゲーム感覚の楽しみでもある。ときどき爆弾発言をして顰蹙を買うことはあるが反省はしていない。

 ピアノの生徒は会議の合間を縫って、時折現れる程度だから、私は現場から去ったわけでもない。私はまた現場が好きでもある。ピアノを弾く、ピアノを教える、という現場はいかに管理職といえども手放す気はない。音楽学部から芸術学部へ改組するのに、学部全体どのような組織にするかも根本的にみなおしている最中で、これもある種、気持ちのもちようによって創造的な営みといえないこともない。これまで経験しなかった新しい経験をこの年になって新しく始めるのだ。いくつになっても新しいことに挑戦するのは面白い。

(追記)陸別町ではマイナス28度、とラジオで言っていた、信じられない。

ゾルターン・ジュンジュシ氏の訃報 [札幌大谷大学]

 札幌大谷大学に外人講師としてこれまで3回来日してこられたフルーティストのゾルターン・ジュンジュシ(日本語で「真珠」という意味らしい)氏急逝のメールがはいったのは暮れも押し迫った30日だった。ほんの1週間ばかり前に彼の演奏に接し、ゆっくりと話を交わしたばっかりだったので衝撃を受けた。ハンガリー人だから、言葉が通じないとお互い思いこんでいたのが、ドイツ語が通じる、とわかってからは、堰を切ったようにいろいろな会話を交わした。

 日本のフルーティストの中でもあまり知られていない人物ではないかと思うのだが、その演奏は気品にみちた、私がこれまで誰からも聴いたことのないようなフルートの音楽だった。とくに低音部の言葉に尽くせない弱音の美しさが耳に残っている。ご本人の話では、かつてベルリン・フィルにいたのだが、考えるところがあってベルリンから故郷のブダペストに移り住んだ。「ベルリン・フィルの方が、あらゆる面でいい生活ができたはずなのにどうして?」と問う私に彼はこう答えたものだ。「確かにベルリンは快適だが、自分はハンガリー人なので何かしら、あそこのオケには違和感があり、ハンガリーにいて仕事をした方が本来の自分に合った仕事ができる気がすると思ったから」。

 あまりに演奏が素晴らしかったので、私はひそかに、来年度の「とまりむら」に彼にゲストとしてきて演奏してもらおう、と考えていた矢先だったので言葉もない。死因は車を運転していての交通事故だそうである。音楽学部長名でリスト音楽院院長にあてて送った弔慰のメールに丁重な返事が来た。大意は以下の通り。

「みんなの尊敬を集めていた得難い音楽家でした。札幌であなた方の前で演奏したのが彼の最後の演奏となったのです。彼には二人の大学生の子供が残されたが、妻は難病で入院治療中。彼らの生活を何とかしなければならないので、私たちもそうする予定だが、札幌でもチャリティコンサートなどで少しでも資金を集められないだろうか」。

 音楽学部ではさっそくその方向に向けて動き出している。特に札幌大谷大学の音楽学部の先生や学生のみなさん、ご協力をぜひお願いいたします。
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