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電車ならなんでも乗る(3) [旅行]

北陸新幹線に乗り遅れるな!で街ぐるみ、地方ぐるみで熱気を帯びている金沢である。当地の状況も先に述べた富山と同じ。金沢に来たついでに、金沢を中心に伸びている北陸鉄道のひとつ、「石川線」に乗ってみた。福井、富山と路面電車があるなかで、金沢だけが早々と路面電車を撤去してしまった県庁所在地である。

北鉄の石川線始発駅の「野町」は街の中心部から少し離れたところにポツンとある。昔はここまで路面電車が乗り入れており、ここから北鉄に乗り換えて専用軌道で郊外に向かう、という構図だったのだが、今は中心部との連絡はバスだけになってしまった。電車はすべて二両固定編成の旧東急系が中心で、京王のステンプラ電車も若干あり、電車の検車、集積地は終点の鶴来駅にある。すべてひと時代優勢であったコルゲート板のステンレス製で統一されているのは塗装の手数が省けるからであろう。全線乗ると片道28分かかる。昔は急行電車もあったようだが、今はない。東急からの電車に入れ替わったのはもう20年以上前だそうだが、その頃には東急も空調設備がなかったので、車内に後付けされたもので、それ以外は基本的な改造はない。そういえば東京の電車にすべて空調がゆき渡ったのはわずか20数年前であり、今の若い人たちは電車は空調があるのはあたりまえと思っているから、短距離の地方鉄道といえども、空調サービスがなければ見向きもされなくなっているのだ。厳しい時代である。

路線状態はいいとは言えないが、枕木はすべてコンクリート製で、全線単線、行き違いの駅は自動ポイント、つまり電車が反位のポイントを蹴飛ばして走る昔懐かしいやり方は地方鉄道ならではのもの。沿線で目についたのは、大掛かりな宅地開発で 、これでみるところ、まだ沿線住民の増加を見込んでのことかもしれない。沿線にとくに見所があるわけではないので今は閑散としているが、神社の大祭のときは超満員になるそうである。やはりこの電車に乗るだけが目的で来た、とおぼしき人もカップルで何人かいて、地方鉄道を乗り歩いているマニアも少なくはない、ということを実感した。(金沢のホテルにて)
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鶴来駅
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野町駅・自転車もそのままのれる

追記:北鉄にはもう一路線、JR金沢駅から北にあるが、午後の仕事の都合上間に合わないのでいずれまた。金沢駅がものすごく立派になったのは驚き。駅ビルもだが、駅前が整然とわかりやすく整備されていた。

電車ならなんでも乗る(2) [旅行]

高知に仕事に来たついでに仕事の翌日、帰りの飛行機を夕刻ごろに設定して、かねて乗ってみたいと思っていた、土佐電鉄、土佐くろしお鉄道に乗った。「ごめん・なはり線」という愛称がつけられている土讃線、御免駅から分岐して海岸沿いに東へ奈半利までの約53キロの3セク鉄道。その先の室戸岬まではバス連絡がある。ある意味、JR北海道の日高本線と似たようなシチュエーションといえる。10年くらいまでは土佐電鉄も市街電車が途中駅の安芸まで来ていたが、これは日本一長距離の市街電車であった。いまも土佐電鉄は電車部門自体赤字になっていない、というからすごい。さすがに御免以遠は持ちきれなくなったようである。以上の情報は地元の高知新聞の社員やタクシーの運転手からのものだから多分正しい。

高知10時21分発、観光用に設定された9640-25(くろしおに,GO?)というナンバーのディーゼル車は確かにユニークである。通常の客車とトロッコ列車をひと客車に組み込んだようなもので、前面は一枚のカーブドグラスで展望がすばらしく、一番前の席にありつければ最高。海側はオープンデッキの自由通路、ガラスの内壁があって車両中央に二人がけの転換式クロスシート、通路をはさんで山側は寝台車の廊下にあるような折りたたみ式の腰掛け、という一風変わったもの。(JR土讃線走行中はデッキ立ち入り禁止、というのはなぜだか理由がわからない)スピードはごくゆっくりで40キロくらいであろうか。軌条はコンリート枕木に載ったしっかりしたもので、帰りの快速列車はそれにふさわしいスピードで走っているところをみると太平洋の景色を満喫してもらうためのスロー運転と思われる。不思議なことに、これだけスピードや停車駅(観光用車両は各停)がちがってもダイヤ上、到達時間はいくらも違わない。その辺のところ、スイスの氷河急行と一般の普通列車とのケースと酷似している。

四国を切れ切れの鉄道で一周してみようと思っているから 、今回はその下見の意味もある。大部分がコンクリート橋脚の高架で作られているから、少々の津波では問題なかろうが、東関東大震災級の大津波だと果たしてこれで持つだろうか、という心配は残る。終点の奈半利駅は行き止まり、単線で駅周辺なんにもないところ。近辺にはそば屋もなにもないから、駅売店で買った巻き寿司の昼食を誰も人影のない駅屋上ベランダでとりながら、いま南海トラフの大震災が起きたら、果たしてどこへ逃げるか、と海がすぐに迫る港を眺めながらちょっと心配になった。一応この鉄筋三階建ての奈半利駅は避難所の指定になってはいるが。。。

御免駅近辺で「ごめんOO内科」「ごめんOO小学校」などの看板をやたら見るにつけ、なんか目の行くところなぜことごとく謝られなければならないのか、と奇妙な気分になる。沿線はほとんど高架だから列車からの太平洋の眺めはまことにすばらしい。ここは車で行ってはダメである。
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高知駅
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奈半利駅
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B777-300(付録) [旅行]

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新しいB777-300の革張りシート。縫い糸は赤、枕カバーも濃赤色、シートはかなり固め、とスポーツカーさながらの座り心地で質は格段に向上。照明は従来の蛍光灯一点張りからLEDを使ったもので、飛行中はブルーとピンクとなり、なんかナイトクラブ風ではあるものの、最初は違和感を覚えたけれど慣れるとそう悪い趣味ではない。往復とも777-300だったから旧型機からだいぶん入れ替えが進んでいるものと思われる。

鉄道のデザインで思うこと [旅行]

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ロストックからモリ鉄道のバート・ドベランまでは642型のディーゼルカー。日本ではどこでも売っているあたりまえの時刻表は、本屋でもDBAGの全時刻表は売っていないし、駅でもとりあえず自分が利用したい区間の情報しか得られない。無論、ネットで調べればわかるけれど面倒である。ロストックから先は実は、わからないけれど、行けばなんとかなる、という行き当たりばったりの旅行となった。

写真や模型で見ておおよそ知ってはいたが、こうしていろいろな列車を乗り継いで旅行してみるとドイツの鉄道デザインはICE3あたりから、RE、地方のローカル鉄道に至るまで、機関車も、電車も、客車も、ディーゼルカーもほぼ一貫して丸っこいデザイン、赤と白の塗り分け、というふうになってしまった。これをいかにもドイツ人好みの統一感、と捉えることもできようが、あるドイツ人に言わせれば、みんなおんなじで退屈になってしまった、と思う人もいるようである。

日本の鉄道はその観点からみるならかなり個性的なデザインが多い、ともいえるし、ハチャメチャ、と捉える人もいよう。私はどっちもアリだ、と考えるのだが。。。いまの若いドイツ人は鉄道とはこんなもの、と当たり前に思っているだろうが、戦前の車両以来ドイツの車両を見続けた人間には、こういう車両を目の前にすると、これも時代の流れ、と感無量の思いにとらわれる。

Hotel Grunewald [旅行]

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まあいえば木賃宿である。朝食付きで二人で一週間で500ユーロ、ホテルというよりWirtshaus(旅籠屋、とでも訳すべきか、古い言葉だなあ)といった方が当たっている。はずれとはいえ、ベルリン市内である。森の中にあるが、駅には近い。アウトバーンの出口にも近いのでモーテル的でもある。それにもかかわらず、ダブルの部屋は広いし、静寂でもある。ドイツの宿泊所(民宿もふくめて)は概して清潔であり、必要なものは風呂以外は揃っている。滅多に利用しなかったがレストラン兼バーの料理の味も悪くない。

こういう気取らないところが私は好きなのだ。ネットで探したので、行ってみて気に入らなければ引っ越そうと思っていたが結局一週間居着いてしまった。気取らないところが好き、といっても日本のビジネスホテルは大概狭くて居場所もないくらいだが、ここでは部屋で二人でラジオ体操くらい楽にできる。Wi-Fiもつながるし、電灯が切れてもすぐ処置してくれる。(でもなぜかよく蛍光灯が切れた)宿泊したドイツ人の投書の一部によれば少々流行遅れ、家具やカーペットはもう少しなんとかならんか、とある。でも値段を考えればまあいいか、という投書もまたある。

私たちはここの二階(日本流に言えば三階)に投宿していた。ヴァンゼー湖畔まで森の中を歩いて7,8分。ただし今の時期だから快適なのだが、夏は冷房がないから多分かなりつらかろう。真夏はお勧めしない。

ここまでの遅延はそうそうあるものではなかろうが。。 [旅行]

いい調子でmolliを楽しんだ帰りのRE4367。ロストックーベルリン間の急行はすべてダブルデッカーの4~5両編成、機関車はすべて112型のペンデルツーク。3時間足らずの旅程なので、スピードはそう必要ではないのであろう。2階にある一等車は同じような構造の日本の横須賀線・総武快速線などに比べ、天井も高く、シートも1+2でゆったりして、外観から想像するより快適。今日もこれで無事予定を終えられるか、と思ったが、ベルリン中央駅までほんの100メートルしかない、と思われるところでストップ。「技術的な問題が生じ、しばらく列車は動けません。救助の列車を待ちます。この列車はヴィッテンベルク行きですが、ベルリンで運転を打ち切ります。申し訳ありません」とアナウンス。

女性の車掌が車内を回り一人一人に行き先を聞き、対応に追われている。私たちはベルリンでSバーンで乗り換えるだけだからいいようなものの、その先まで行く人は2時間後の最終列車を待つしかない。それにしてもなかなか救援の機関車は来ない。ほかの乗客もイライラし出し、「あと何分かかるんだ」とか聞いているがはっきりしない。1時間ほどして、「救援列車が到着しましたのであと10分ほどで牽引されます」。しかし待てど暮らせどいっこうに動く気配がない。私も退屈してきたのでどうでもいいこととは思いながら、救援に来たのは機関車単体ですか?と車掌に聞いたら、いや、同じ列車の全編成です。という。何年か昔、千歳線で同じ体験をしたのを思い出し、やれやれまたか、とうんざり。JR北海道と違うのは腹は減ったけど炊き出し、などというサービスはないから我慢するしかない。聞きかじった噂でしかないがブレーキが緩解しなかったのが原因、といった人もいた。

結局1時間40分くらい遅れてやっとホームに進入できた。「なんだ、10分なんて言いながらその十倍もかかったじゃないか」とかぶつくさ言いながら乗客は疲れた様子でおりて行った。我々も腹は減ったが、もう駅には何も食べるものは売っていない。深夜ホテルにたどり着いて、お湯をもらい、こういうこともあろう、と持参しておいた「マルちゃんのキツネうどん」でなんとか餓えをしのいだ。

ベルリン滞在記(2) [旅行]

仕事がらみではなく純粋に観光旅行に外国に出かけたのは実に何十年ぶりのこと。帰国したきょうは疲れを休めるために、東京でなにもない一日をあけてあるので、記憶の新しいうちにざっと書き留めておこうと思うが、当然、他人の旅行記など興味のない方が大部分であろう。あくまでも自分の記憶保存のためが主なので少々長くなるがお許し願いたい。

第1日
8:10成田エキスプレス。JAL407便 11:35定刻発、16:40Frankfurt定刻着。駅前ホテル「EXELSIOR」に投宿。夕食は駅中のバーでBockwurst mit Kartoffelnsalatとビール。

第2日
9:13 ICE 1で Frankfurt発 車中で、肩掛け鞄を駅のベンチに忘れた事に気がついた。車掌に一応報告したが、フランクフルトには一応連絡するが、見つかればベルリンのHbfに連絡が入るはず、という。冷静になって考えてみたら、旅行を続けるのにどうしても必要不可欠なものはそれほど入っていない。お土産、寝間着、それとiPadのケーブル、予備の下着など。この時点で外国で紛失物を探す無意味さを考えて、あきらめる事にした。

Berlin Hbf 12:25定刻着。すぐSバーンに乗りかえて(S7)Nikolasseeでホームまで迎えにきていてくれた義兄夫婦とおちあう。ホテル「GRUNEWALD」にチェックインののちそのまま、Zehlendorfにある義兄宅へ。つもる話多く、遅くまで談話。帰りはSバーンで帰るから、と言ったが深夜のSバーンは危険、やめたほうがいい。知り合いの日本人夫婦が身ぐるみはがれたこともある、とおどかされ、BMWでホテルまで送ってもらう。ベルリンも治安が悪くなったなあ。

第3日
最近のベルリンの町をあてもなくとりあえず視察、ということでTageskarteを買い(買い方に大苦労し、ドイツ人をつかまえて助けてもらう)Friedrichstrasseに向かう。適当に路面電車にのって、地図を見ながら乗り回る。午後、義兄宅へ。もう自分で行ける、と思ったがZehlendorfの駅からバスの乗り方が分からず、タクシーをつかまえ、乗ったはいいが、住所を書いた紙がない。電話番号だけは手帳にあったので、運転手に電話をしてもらい、やっと到着。そもそも公衆電話というものがドイツにはもうほとんどない。日本では少数ながら駅などの要所ではまだ見かけるのだが。また深夜に帰宅。


第4日

天気がいいので、ポツダムの宮殿を見るために、S bahnとREをWannseeで乗り継いで出かける。たった7.7キロしかないのに REが大幅に遅延し、一時間もかかってポツダム着。今朝の新聞でおおよそ知ってはいたが、昨日大幅なストライキの影響で、今日まで混乱が残っているらしい。駅の時刻表にある一本前の列車は運休になったみたい。だが、それについてなんのアナウンスもないのはひどい。帰りのREもやはり25分遅延。たった7キロの距離をベルリンではなぜ一時間もかかるのだろう。

ポツダム、サンスーシ宮殿見物の目的は(1)「鉄」の目で見るなら、宮廷敷地内に一両だけ保存されているはずの当時のHofzug(宮廷列車、メルクリンの模型で再現されたのが私のコレクションにある)見るため。(2)政治的に見るなら、第2次世界大戦に日本が降伏し、ポツダム宣言を受諾した場所でもある。(3)音楽的に見るなら歴史的な名著「フルート奏法」の著者クヴァンツがフリードリッヒ2世に仕えていた宮廷、というよりも、ヨハン・セバスティアン・バッハが当時宮廷楽師であった息子のエマーニュエルの紹介によりフリードリッヒ大王に謁見、王の前で演奏し、さらに王の主題による名曲「音楽の捧げもの」(Musikalische Opfer)の生まれるきっかけになった場所、といった方が分かり易い。

まず、宮廷列車について。これはいまDBAGが管理しているらしく、ポツダムHbfから2駅西のAm Wildpark駅に隣接して建てられているが一般には公開しないとのこと。残念! でもまあせっかくきたのだから建物だけでも見て、広大なサンスーシー宮をひととおり見学した。なんといってもバッハがかつて演奏し、クヴァンツが仕えていた宮廷なのだ。出口近くで当時の宮廷の服装でフルートを吹いていた男がいた。私の顔を見るや、日本の童謡を吹き始めたが、私はそれを制し、ここはバッハが来訪した宮廷ではないか、といったら、バッハの管弦楽組曲の「バディヌリ」を全曲披露してくれた。あまりうまくはなかったが、お礼に5ユーロ奮発した。そうこうしてホテルに帰ったら、東京出発当時から風邪気味だった妻の風邪が急に悪化し、ホテルにつくやダウン。

夕刻、ハンブルクに住むN君の来訪があり、久しぶりに飯を食いながら歓談した。

第5日

妻が高熱でひどいので、義姉がホテルより家で寝ていた方いいから、というのでそうしてもらう事にした。さいわい持参した抗生物質が功を奏したか、夕刻には熱は下がり始め、気分も良くなってきたみたいなので、夕食は皆と一緒にとる。
私は、といえばこの日は一日、義兄とコンバスのレパートリーを片っ端から合奏して遊ぶ。これは楽しい一日だった。

第6日

少しEUROが不足してきたので、町まで義姉が一緒にいってくれるという。なにも両替えくらい、町までいかなくとも、と思ったが、率のいいところ知ってるから、というので一緒に行ってもらった。電車賃を使っていったら同じ事では、と思うがせっかくの好意を無駄にするのもとも思い、町を案内してもらうのもかねて Zoologischergartenまで出かけた。Zoo駅は冷戦時代、実質上Hbfだったのでその変わりようも見たかった。

両替のあと、姉とも別れ、KaDeWeで気に入ったシャツがあったので買い、その足でHbfまでいって、翌日予定していたMollibahnのためのRostock行きの時刻表をインフォメーションでもらい、ついでに帰りのICEの座席指定券も買っておく。ところが駅のホームのベンチで夢中で時刻表を読んでいたら、せっかく買ったシャツをベンチに置き忘れた。一駅のって気がついたが戻ってみたらもうなかった。いかにもくやしいので、翌々日またKaDeWeで全く同じものをまた買うことになる。(年のせいか、よくものを忘れる)

義兄夫妻は明日から新しい家を見るため、700キロもあるザールブリュッケンまで運転して行くという。娘夫妻がいるところなので、老後はその方が安心、という事なのだが、もうすでに80才だから十分に老後ではないか。家探し、今の家を処分する、引っ越し、とそれだけでもこの年で大変な事である。いまのベルリン郊外のこの家でも十分快適じゃないか、と思ったのだが、まあ彼らなりの考えでそうするのであろうからあまり深入りはしない事にした。

第7日

Rostock経由でmolliの始発駅であるBad Doberanに行く。これについては「鉄」関係なのでいずれ別の項目で。


第8日

妻と中心街のZooまで出る。 ふたたびKadeWeで同じシャツを買い、妻が気に入った帽子をみつけたのでこれも買った。このデパートで昼食をとり、午後はWannseeまでS bahnに乗車。この日は雨が降ったりやんだりであまり天候はよくなかったが、とりあえず雨にぬれなくてもすむ2時間の遊覧船でWannseeを見物した。乗りながら分かった事だが、この水路はWannseeも含めて途方もなく広く、2時間のRundfahrtはほんのそのごく一部だった。

第9日

Berlin Hbf10:32発  ICE371 でフランクフルトに来たが、この駅は昔とあまり変わっていない、と思った。ただしそれは見かけだけで、S bahnが地下にもあり、空港行きの列車を見つけるという単純な事に大きな荷物を抱えて右往左往した。ドイツ第一ののハブ空港、というのに、行き方の表示が中央駅に全くないのは外国人には不親切。行きに立ち寄ったバーでふたたび食事をとりながらよく見るとMITROPAにかんする、古い写真やミトローパのロゴが店頭に掲げられている。マスターにゆっくり話を聞きたかったが、忙しそうだったので機を逸した。このバー、どうやらただ者ではなさそう。

JAL408便は日本の大雨の影響で1時間遅延。今度の旅行はいたるところで交通機関の遅延に見舞われた。なかでもmollibahnを見に行った帰りのREの遅延は実にひどかった。が、これはまたいずれ。

第10日

14:30成田空港に1時間遅れで到着。

ICE久方ぶりの感想 [旅行]

最近ドイツの鉄道に乗る事があまりなかったので、ひさしぶりに新鮮な気分でDBの列車に接する事ができた。ごく大まかな感想ではあるが、現在でもICE1が一番ひんぱんに見かける。ICE3のほうがどちらかというと見かける率は少なく、幾分薄汚れている事が多いのは意外であった。ICE 1はだいたいどれもが美しくレストアされ、外装、内装ともにICE3に見劣りする事がない。フランクフルトーベルリンは往復ともICE1であり、行きはGrossraum,,帰りはAbteiiの指定をとった。屋根の高い食堂車もなかなか明るくて気分がよく、やはり食堂車での食事は旅行気分格別。日本もなんとかしてほしい。

ダイヤはかなり余裕を持って組んであるらしく、ときには速く着きすぎて、しばらく停車する、ということもある。改めて、日本の新幹線とは、まったくちがうシステムだから当たり前、と言えば当たり前なのだが、在来線の中での特別な列車、という感じがする。在来線を改良した路線、新線などを渡りながら走るのだから、概して新幹線のようにいつも200キロ以上で走っている訳ではないし、平地を走る事が多いから、羊や牛の放牧を見ながら走る事が多く、速くても「のどかに旅行をしている」という余裕のある気分になれる。ICEの走る区間のポイントはとても日本では見る事のできない緩いカーブで、これにはよほどの土地の余裕が必要であろうと思う。

反面、従来の客車列車のICをみかける事が極端に少なくなった。比較的短区間の急行はREでシルバリンゲよりはすでにダブルデッカーが主流のペンデルツークで。機関車はさまざま。今は112型となっている旧東独製の四角ばったのががおおい。112と114はどう違うのでしょうか。さすがにシルバリンゲも影が薄くなってきたようにみえる。

今日日本に無事(でもないが)帰国しました。

長期滞在のホテル [旅行]

一週間以上の滞在は、自分の普段の生活のレベルからあまりかけ離れない方が私には疲れなくていい。立派なホテルはたいがい規模が大きく、例えば朝食(いまは大抵バイキング)も料理の数が多ければいい、というものでもなく、レストランが広くて立派であればいい、というものでもない。かえって客も多く、騒々しくて落ち着いて朝食が取れないのがイヤなのだ。ホテル疲れ、というのをよく経験する。

ベルリン滞在のホテルはネットで適当に選んだものだが、ベルリンもはずれにあるこの「ホテル・グルーネヴァルト」はおおむね正解であったと言える。部屋数も少なく、従って客数も知れているから、朝食も混み合うことがない。部屋の大きさも自分のいまと同じくらいの大きさで、ちょうどいい。しくじったのはネットで確認し損なった「シャワーしかない」ということで、日本にはどんなショボいビジネスホテルでも風呂だけはついている。しかし私はもともとそう風呂好きというほうではなく「カラスの行水」派だから、要するに「清潔になればそれでいい」。シャワーだけでもさほど不自由は感じなかった。早く日本にかえってゆっくり風呂につかりたい、という欲求もあまり感じない。

なんといってもドイツ滞在の最大の楽しみのひとつは「うまいパンにありつける」ことであろう。左派の人にはビールはもちろん、いろいろある。これはホテルの格式に関係がない。ちがいといえば、種類が幾分少ないだけで大筋変わらない。ここでも毎朝うまいパンとうまい塩なしバターとうまいジャムを楽しめた。BGMなし、という静かな環境も言うことなし。ロケーションは「森の中にある」にもかかわらずSバーンの駅まで5分。ベルリン中心街まで20分たらず。ラッシュどきでもSバーンはいつも空いていて、立ち席客をみたことがない。フロント従業員はドイツ的に少しぶっきらぼうでつっけんどんだが、やるべきこと、もしくは頼んだことはきちんとやってくれる。こういうホテルは日本にはそうそうあるものではない。(というより見たことがない)

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